法 話

(195)「杉原記念館 老朽化①」

  

 

 

   

 


大府市S・E氏提供



  「杉原記念館 老朽化①」






2017522日付中日新聞朝刊25ページに、「リトアニアの杉原記念館 老朽化」のゴシック文字見出し。加えて「千畝の思い 風化防げ」の明朝体大文字。さらに、「『ペンキ屋集団』無償で塗装へ」の縦書きタイトル。併せて、見覚えのある外国公館の写真が私の眼を惹き付けました。そうだ、リトアニアはカウナスに建つ「杉原記念館」だ。

新聞記事は「第二次世界大戦中、ナチス・ドイツに迫害された数多くのユダヤ人難民を救った外交官杉原千畝(19001986年)。ビザを発給したリトアニアの旧日本領事館『杉原記念館』は今、傷みが激しく雨漏りもする。窮状を知った愛知県春日井市下市場町の塗装業『麻布』社長の池田大平さん(53)らペンキ屋集団は今年9月、無償で塗装に行く。(春日井支局・浅野有紀)」というもの。

加えて、「功績を残す活動 中部でも拡大」と題しての囲み記事。

「海外にも知られる杉原千畝の功績を生かそうと、中部地方では観光 や学術交流など、さまざまな取り組みが広がっている。杉原の出身地岐阜県八百津町は『命のビザ』に関連する資料を、国連の教育科学文化機関(ユネスコ)の『世界の記憶(世界記憶遺産)』に申請中。今夏ごろに審査結果が出る見通しだ。

杉原ゆかりの自治体間では観光面の連携も進む。昨年7月には八百津町や、難民が上陸した福井県敦賀市など東海北陸の5市町村が『杉原千畝ルート推進協議会』を発足させた。今年4月には杉原が少年期を過ごした名古屋市が加わり、イスラエルや米ニューヨークの観光展で外国人観光客の誘致を目指す。(以下略)」

 思い起こせば8年ほど前、私が主宰する任意団体「アジア文化交流センター」が研修セミナー旅行を企画実施したときのこと。旅行先はバルト三国とロシアのサンクト・ペテルブルグでしたが、主目的地はリトアニアのカウナス。そこには第二次世界大戦中に日本領事館が置かれていて、杉原千畝領事代理が駐在していました。

その領事館がそのまま保存されていて、現在「杉原記念館」となっています。その「杉原記念館」の老朽化問題が今回の記事で取り上げられたのです。「杉原千畝」という名前はどこかでお聞きになったことがあると思いますが、岐阜県八百津町のお生まれで、愛知五中(現・瑞陵高等学校)出身の外交官。

杉原千畝氏は、19398月領事代理としてリトアニアの日本領事館に着任。翌年7月、ドイツ軍に追われたユダヤ難民が、第三国へ出国のため、日本通過ビザの発給を求めて日本領事館に殺到しました。杉原氏は、日本の外務省宛にビザ発給の許可を求めて何回も請訓電報を打電。しかし、返電はいずれも「発給不可」。

杉原領事代理は、次第に疲弊し憔悴するユダヤ難民を目の当たりにして、ついに決断。本国の訓令に反しても、人道的見地からビザ発給に踏み切らざるを得なかったのです。時に1940729日朝のことでした。「ビザは間違いなく発給します。順序よく入ってきてください」杉原領事代理の呼びかけに、殺到していた鉄柵の向こうの人々の表情が和らいだとのこと。

一人ひとりの応答の後、手書きでビザを書くという作業が始まりました。日本通過のビザを発給するには、受け入れ国の上陸許可証と、日本から目的地まで行ける切符あるいはお金を持っているか、今後準備できる目処があるのかどうかを、確認しなければならなかったのです。面接を行ってはビザを書くという面倒な作業。

以後杉原領事代理は、明けても暮れてもビザを書き続けました。朝9時から夕5時の閉館時間過ぎまで、食事の時間も惜しんで書き続けました。睡眠不足のため目は充血し、痩せて顔つきまで変わってきたとのこと。奥様の杉原幸子様の書かれた著書「6000人の命のビザ」によれば、食事もしないでビザを書き続ける主人のことを心配されていた模様。

万年筆は折れ、ペンにインクをつけて書くという難儀な作業の連続。途中からは手を省くため番号付けを取り止め、30銭に相当するリトアニア貨幣の手数料も徴収を停止。一か月近く昼食を摂らずビザを書き続けたため、さすが体の大きな杉原領事代理も体力が衰え、気力だけで書き続ける状態だったといわれます。

その間、ソ連からの数回にわたる退去命令があり、日本の外務省からも「領事館退去命令」が出されていました。まだまだビザを求めて順番待ちのユダヤ難民がいることは承知していましたが、緊迫する情勢と体力の限界を感じ、杉原領事代理は826日ついに領事館を閉鎖して退去することを決断しました。

(次号へ続く)

合 掌

 

2017.6.3 前住職・本田眞哉・記》

 

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