法 話
(196)「杉原記念館 老朽化②」
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「杉原記念館 老朽化②」
リトアニアの日本領事館を閉鎖して退去した後、杉原領事代理一家は1940年9月4日まで、カウナスのホテル・メトロポリスに滞在。この間もユダヤ難民がビザを求めて訪れ、翌朝カウナス駅までやってきたといわれます。さらに汽車が走り出すまで、窓から身を乗り出して「許可証」を書き続けたとのこと。後日談では、正式のビザでなくこの許可証でもソ連領内を通過して日本へ来られたようです。
杉原氏はリトアニアを後にして国際列車でベルリンへ。1940年9月には、チェコのプラハに総領事代理として赴任。以後、ドイツ・東プロイセン州の日本総領事館やルーマニアの日本公使館に駐在。1942年のこの頃、アウシュビッツのユダヤ人の大量虐殺が始まっています。ルーマニアのブカレスト赴任2年後には空爆が激しくなり、別荘地へ疎開したり夫人が戦乱に巻き込まれたりしました。
1945年4月にはヒトラーが自殺し、ドイツは降伏。杉原氏の家族は捕らわれの身となり、ソ連の捕虜収容所での暮らしを強いられました。以後、シベリア鉄道でナホトカの収容所へ移され、興安丸で博多港に向かい日本に上陸するまで、1年9か月に及ぶ艱難辛苦の旅が続きました。1947年4月、ようやく杉原氏一家は祖国の土を踏むことができました。
ところが、そこに待ち受けていたのは外務省からの辞職勧告だったのです。岡崎外務次官から同年6月7日「例の件によって責任を問われている。省としてもかばいきれないのです」と言われたということです。時に杉原氏47歳。「例の件」とは何か。言わずもがな、ユダヤ難民に日本通過のビザを発給したことです。本国政府の訓令に反して…。
(続く)
合 掌
《2017.7.3 前住職・本田眞哉・記》