法 話

(197)「杉原記念館 老朽化③」

  

 

 

   

 


大府市S・E氏提供



  「杉原記念館 老朽化③」




 

 

50年近く、彼の人道主義的業績は日本政府にとっては負の業績として封印されたままでした。19851986ごろからようやく日本のマスコミでも、杉原氏がユダヤ人を救出した人道主義者として話題となり、1989年にはニューヨークでADL財団(ユダヤ人援護団体)から「勇気ある人賞」を受賞。ところが、この時すでに杉原千畝氏は亡くなっていました。

相前後して内外のマスコミにもたびたび取り上げられるようになり、1992年には日本の国会でも彼の名誉回復について質疑が行われました。当時の渡辺美智雄外務大臣も宮沢喜一総理大臣も、古いことで資料もなく不明な部分も多い、またその時点では服務命令違反ということであったかも知れないが、名誉回復は当然でありその功績を称えたい、と答弁しています。

さらに、世界各地で杉原氏の功績を称える事業が計画実施されるようになりました。リトアニアのカウナスはもちろん、首都ビリニュスにも杉原千畝顕彰碑が建立され、1992年には生誕地の岐阜県八百津町には「人道の丘公園」が整備され、杉原記念館が建設され顕彰碑が建立されました。

とにかく、本省の意向に背いてまでも人道主義に徹し、自分の生命と職名を賭してユダヤ人にビザを発給し、6000人の命を救った業績にはただただ平伏のほかありません。杉原幸子夫人が書かれた『6000人の命のビザ』の著作を読んでいても、各所で涙が滲み出てきました。「人類愛」とは簡単に言いますが、こうした現場に身を置いた場合、つい保身が先立って杉原氏のような行動はとれるものではありません。また、杉原氏の決断に賛意を表し支援された幸子夫人も、実に偉大な方だったと思います。                   

合掌

《2017/7/30前住職・本田眞哉・記

 

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