法 話

(2)「エコとエゴ」

  新しく就任したアメリカのブッシュ大統領は、地球温暖化対策を定めた「京都議定書」から離脱することを表明しました。あまりにも唐突な発言に「えッ?」と耳を疑わざるを得ませんでした。その衝撃波は日本はもちろん世界中を駆けめぐりました。

 世界各国が化石燃料を今のままで使い二酸化炭素を排出していけば、地球の温暖化は進み100年後に気温は最大で5.8度(IPCCデータ)上昇すると4月25日の中日新聞が報じています。また翌日のNHK報道によれば100年後には4〜5度上昇するとのこと。万が一そんなことになれば、洪水や干ばつ、海面上昇による被害が地球上のあちこちで発生することに。のみならず、気候変動による生態系への影響も懸念されます。寒冷地に棲息する種は絶滅し、温熱帯の海洋生物は北上するとか。人間にとっても、台風は大型化し多発することになり深刻な影響がもたらされるということです。さらに、温暖化によって予想もつかない感染症が出現するかも。

 そうした事態を未然に防ぐための「京都議定書」に、人口が世界の6%に対して25%の温暖化ガスを排出している(ドイツ連邦環境省HPのデータ)アメリカが、突然否定的な態度をとるとは信じられないことです。まさに、エコ(ロジー)ならぬエゴ(イズム)といえましょう。あるアメリカ市民は「ブッシュ大統領は、自分を支援する化石燃料会社の利益を、地球の人々、地球の未来より優先している」と語った(中日新聞)とか。まさにエゴも極まれりの感一入。

 随分前のことですが、親戚の年忌法事の席で吉良・吉田の正覚寺前住職(当時)・桜部文鏡老師にお会いしたことがありました。師は真宗学の碩学で温厚篤実な方。時あたかも東京オリンピック後の高度経済成長期の真っ直中。確か、名神高速道路はすでに開通(1965)し、東名高速道路の築造工事たけなわのころだったと思います。

 師は私に「高速道路ができるそうだが、今までの道路とのつなぎ目はどうなるんかな」とおたずねになりました。若かりし私、ここぞとばかり聞きかじった“知識”を頭の中から引っぱり出して説明。つなぎ目はインターチェンジといって、トランペット型がどうとか、アメリカのハイウエーはこんな風で、ドイツのアウトバーンが… と、気負いこんでお話したんですが、どうもかみ合いません。やっぱりお年だし、それに学者何とかで、世間のことはあまり得手でないのかな、と失礼なことを考えておりました。

 すると師は「じゃ、この辺の道にも自動車がいっぱい入ってくるんだな?」とおっしゃいました。そこで我が意を得たりと私は「そうです、この辺も便利になります。遠くまで車に乗ったままで早く楽に行くことができます。マイカーの普及も進んで、台数もじゃんじゃん増えますよ」と熱弁?を振るってしまいました。当時は、高度経済成長・大量生産大量消費が至上で、自然をなぎ倒しての開発開発の価値観が時流で、私自身もそうした考えが当然だと思っていました。

 ところが、師は「そんなに木を切って山を削って高速道路なんか造って、あげくに静かなこの町にも自動車が一杯入り込んで来て、それでいいのかなあ」と。「環境破壊」とか「自然破壊」という語はなかったと思いますが、そういう趣旨の発言でした。私の考えと全く相容れないご意見でしたので、ガツンとやられた感じで同調することができませんでした。

 その後、まことの智慧を聞き拓くご縁にあわせていただくにつれ、桜部老師は、環境問題について「人智」でなく「仏智」の場に立って語ってくださっていたのだなと分かってきました。今にして思えば、あの時、そのことに気づかなかった自分が恥ずかしい思いです。一方、日本の社会も国際社会も、往時の行け行けドンドンの経済成長一辺倒を反省し、立ち止まって回りのことを考えるようになりました。

 つい最近内閣府が実施した世論調査の結果によれば、高速道路をこれ以上拡充させることについて「不必要」と答えた人が46.6%で、「必要」と答えた人の36.8%を上回ったとのこと。調査を始めて以来初めての逆転現象だと伝えています。回りのことに目を向け心を配る、すなわち環境問題への取り組み、これがなければ役所も民間会社も成り立たない時代になりました。

 そうしたなか、最近気になるキャッチ・コピーが流布しています。曰く「地球にやさしい…」「自然を育てよう」。まことにおこがましいことば。人間の驕りの現れではないでしょうか。人間同士「人にやさしい」ならともかく、小さな存在の人間が、大自然に対してやさしくしたり、育んだりできるのでしょうか。「自然の偉大さの前に人間の無力をひしひしと感じる」などといっている人間が。そうした自然を見下すようなことばを使うこと自体、人間のエゴではないでしょうか。“自然に挑む”冒険家・大場満郎氏でさえ「自然にあわせて生活することが大切だ」とおっしゃっています。

 さんざん自然を“改造”したり“利用”してきた人間のエゴを、今こそ明らかにしていかなければいけないと思います。何によって明らかになるか。人間の智恵で明らかにしようとしても、自己中心の「人智」では再びエゴへ逆戻り。あたかも自分の体を自分で持ち上げようとするに等しい。仏さまの智慧「仏智」の光に照らされて、初めてそのメカニズムが明らかになるのです。

 エゴとは、仏さまの教えでは「計らい」。計算です。煩悩といってもいいかと思いますが、私たちはこの計らいに振り回されて生きているといっても過言ではありますまい。仏さまの智慧の光に照らされて自分の心底を問えば、やることなすこと全て自分のため、自分の利益のため、計算第一だと気づかされます。自分がエゴそのものの存在であることに驚かされます。このことに真に目覚め、本当の豊かさは何であるかを聞き拓いていくことこそ、私たちに課せられた課題であると思います。

 親鸞聖人は『教行信証
(きょうぎょうしんしょう)』の真仏土(しんぶつど)の巻で「仏に従いて逍遙(しょうよう)して自然(じねん)に帰す。自然はすなわちこれ弥陀(みだ)の国なり。無漏(むろ)無生(むしょう)(かえ)りてすなわち真なり。行来進止(こうらいしんし)に常に仏に随(したが)いて、無為法性身(むいほっしょうしん)を証得(しょうとく)す。」とおっしゃっています。

*《大意》仏に従って、さまよい計らいを棄てて、自然の浄土に帰する。真に自然なる世界、それが阿弥陀さまの国土である。煩悩の汚れなく、生滅の変化もない真実の世界である。行いを常に仏に従わせ、色もなく形もない絶対の真理そのものである悟りの身を得よう。

                                          合掌

2001.4.30.本田眞哉・記】

 

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