法 話
(206)「教化伝道(4)」
大府市S・E氏提供 |
寺報『受教』
教化伝道のメソッドの一つに寺報を作成してご門徒にお届けするというアイテムがあります。その規模、様式、内容は寺々によって様々。A4版1枚裏表2頁から、A3版見開き裏表4頁~8頁まで、大きさは各寺それぞれ。印刷についても、フルカラーあり部分カラーあり、モノクロームあり。厚手のアート紙にフルカラーで印刷され、観光案内のパンフレットと見紛ほどの立派な出来栄えの寺報を拝見したこともあります。一方、手書きの文を普通紙にモノクロームで印刷したものもありますが、これはこれ暖かみを感じ、心に響く作風といえましょう。
カラー印刷といえば、近ごろあらゆる分野でカラー意識が昂揚し、個々人の好みも交えて衣食住全てについてカラーに関心が寄せられているのではないかと思われます。その先鞭を付けたのがテレビ放送のカラー化、テレビ受像機のカラー化ではないでしょうか。あらゆる情報がIT化されカラー表示も実に容易なデジタル時代に、何を今更とお叱りを受けるムキもあろうかと思いますが、シニアが生活史を後世に残そう(チト大袈裟?)としている懐古趣味の披露か、とご笑覧戴ければ幸甚の至りです。
1940(昭和15)年代日本初のテレビ実験放送が試行されたと、明治生まれの母から聞いていました。しかし、その後太平洋戦争が勃発し研究・試験放送は中断。一般家庭にテレビ受像機が普及し出したのは1959(昭和34)年4月10日の皇太子殿下(現平成天皇)と美智子さまのご成婚が“ご縁”となったとか。しかし、経済的に余裕が無かった母子家庭の我が家には“無縁”の代物。その後2~3年して、我が家にも待望のテレビジョンセットが入りました。確か14インチでもちろんモノクロ、コンソール型だった覚えですが、大きなセットが居間にデンと設えられました。
日本のカラー放送の技術は、東京オリンピック1964に向け急速に発達。既に始まっていたカラー放送は、1960(昭和35)年9月からは本放送開始。しかし、全ての番組がカラー化されたのではなく、番組によってモノクロであったりカラーであったり…。カラー番組の時は、画面の右下に「カラー」のスーパー・インポーズ。我が家のモノクロテレビの画面に「カラー」の表示があっても意味ないのになあ、と思った記憶。1971(昭和46)年10月にはNHK総合テレビの全番組がカラー化。
テレビ放送談義はさておき、本論の寺報談義に戻りましょう。当山の寺報は『受教』。了願寺の山号「受教山」からとって命名しました。『受教』の創刊は1962(昭和37)年1月。私が住職に就任して2年。体裁はB4用紙裏表印刷見開き、都合B5版4頁建て。鑢板に蝋原紙を置き、鉄筆で原稿を一字々々ガリガリと筆耕。筆耕終わった蝋原紙を木枠付きの厚紙枠に電気鏝で貼付。その上に木枠付きシルクスクリーンをはめ込みます。
一方、平版インクを金属ヘラで缶から取り出しガラス板の上へ。ワニスを加えてインクを根気よく練り上げます。均等に練り上がったインクを、満遍なくゴムローラーに塗りつけ、いよいよ印刷。シルクスクリーンの上から、ゴムローラーを転がしてこれまた満遍なく原紙にインクを馴染ませます。5~6枚試し刷りをして本番。木製手刷り印刷機はスリーンと原紙が一体になった木枠(版枠)を、ヒンジで紙置台(テーブル)に固定した単純構造。
インクの付いたローラーをスクリーン上で転がして、若干手前に傾斜した紙置台(テーブル)上に重ね置いた中質紙に印刷。一刷りしてローラーを持ち上げると、高所に掛けたゴム紐で版枠は吊り上げられるという寸法。左手で刷り上がった一枚を取り出し、左脇に少し傾斜して置いたケースに順次納めるという至極原始的な手法。この印刷技術は、大学在学中のクラブ活動(美術謄写部)で習得したもの。いわゆる謄写版印刷。
創刊号から1979(昭和54)年の76号まで、この方式で年4回(1月4月7月10月)、19年間発行を継続。そうしたなか1980(昭和55)年秋、親鸞聖御誕生八百年慶讃法要勤修の計画を立ち上げることになり、各種書類作成の必要性も生じたため邦文タイプライターを導入。ローラーに巻き付けた(原)紙に、1,000字に垂んとする活字が並んだ文字盤から活字を一字々々拾い上げて打ち付けるという方式。併せて、印刷方式も手刷りの謄写版印刷機から輪転機(但し手動)へ。
その後、印字方法は邦文タイプライターからIT化へ。ワープロ専用機を経てパソコンPC-9800のワープロソフトへ。そして版下も蝋原紙から電子謄写原紙へ。これは、読み込んだ原稿を放電により電子謄写原紙に穿孔する「謄写ファックス」製版。印刷機も手動輪転機から電動輪転機へ。さらに1997(平成9)年10月にWindows 95を導入。編集作業が一段とスムーズになりました。
2004(平成16)年を迎え、4月勤修の蓮如上人五百回御遠忌法要に向けて170号から紙面をリニューアル。B5版4頁建てからA4版4頁建てへと一回り大きいサイズへ。表紙のデザインも大幅にチェンジ。上段左三分の二には、白抜きの「寺報」と80ポイントほどの特大文字で「受教」の題字。題字の下には「JU KYOU」のローマ字ルビ。上段右三分の一には、発行年月日・№、寺名・所在地・〒番号・Tel番号・Fax番号・Eメールアドレス。
中段はカバー写真。題材は不特定、様々。主に境内の花・木・草の季節感溢れる写真。桜花満開の遠望全景あり、新緑や紅葉の近景あり、蘇鉄の花あり、露草の花のありetc。また、季節に応じて花水木や芙蓉や泰山木の花のUpも。もちろん教化紙ですから、報恩講や永代経などの大きな法要に関連する写真もトップに掲げます。加えて、夏休み子ども教室で子どもたちが描いた絵や、大晦日の新春初鐘(除夜の鐘)のスナップや年賀状の画像、旅で印象に残った写真も。
ここのところ、御遠忌記念事業工事の進み具合を撮った画像を度々掲載し、その進捗状況をご門徒の皆さんにお報せしております。例えば、記念事業工事の起工式や、記念事業のメインであります山門の建替工事でその姿を変えて行く様子。例えば、223号では屋根瓦を下ろし扉も外して骨組みだけになった姿。次の号では新築山門の瓦屋根葺きの状況、そして225号では、ほぼ完工した新山門の晴れ姿。こうしたカバー写真の下、表紙最下段は、CONTENTSと掲示板法語。
2頁は法話。1,500字ほどのボリュームですが、Microsoft Word上で執筆した原稿を編集ソフトAdobe PageMakerの2頁に流し込み版下を作成。法話の内容は、親鸞聖人の開顕された、本願念仏のみ教えを現代語で分かりやすく説くのが本来ですが、どうしても内容・表現とも固苦しいものになってしまいます。そこでお聖教に説かれているお言葉を、現代社会を生きる私たちの当面する問題点に照らし合わせて頷けるよう、表現に留意しつつ記述している積もりです。
一方、ご門徒から多大なご芳志をお寄せ戴いて大きな事業を推進中の昨今は、その事業の進行状況をこの法話の欄をお借りして報告させて戴いております。表紙のカバー写真の項でも触れましたが、当山では2019(平成31)3月31日(日)に親鸞聖人七百五十回御遠忌法要を勤修することを昨年5月決定。以後、準備作業は着々と進行中。因みに、主な記念事業は、築後270年余の山門の建替、鐘楼の修復、東西外周塀の新設・建替、参拝者用トイレの建替。総予算7,380万円。
3頁には「年回正当表」。壱周忌から五十回忌まで、四半期毎のご正当年月日・喪主名を掲載。4頁は「我や先人や先」「東浦同朋会
あゆみ」「感謝の窓」「法縁」「お知らせ」の欄。「我や先人や先」欄は、当該期間中に命終された方の追想記。「感謝の窓」欄はその名の通り篤志寄付。例えば受教発行志とか、報恩講お齋用大根、仏華、野菜お供え、自作絵画等々。「法縁」や「お知らせ」の欄では、報恩講や永代経の勤修案内、同朋会や維持振興会の開催案内、名古屋教区・第2組の法縁・行事案内等を掲載。
以上、当山寺報『受教』の歩みを辿ってみました。1962(昭和37)年の創刊以来いつの間にか56年。顧みれば、第16世住職を拝命し使命感に駆られるなか、先ず何を為すべきか、と自問。「そうだ、教化事業、就中文書伝道、寺報の発行だ」と自答。直ちに実行。そして創刊以来一度も休刊することなく226号をカウントすることができました。関係各位のご支援の賜と感謝するとともに、今後とも寺報『受教』がモノクロームの手作りスタイル乍ら、教化伝道のメディアとしてその役割を果たせるよう地道に精進して参る覚悟です。
合 掌
《2018/5/3前住職・本田眞哉・記》