法 話

(209)「教化伝道(7)」

 

 

大府市S・E氏提供

 

 

東浦同朋会(2)

 

 

前号で東浦同朋会の胎動期について触れたところですが、1965(昭和40)年122日了願寺本堂に於いて結成式が執り行われ、東浦同朋会が発足しました。当山寺報『受教』18号によりますと午後1時開会。全員で正信偈・同朋奉讃で勤行。会長に久米嘉和助氏を選出。以下、副会長・会計・庶務・幹事・監事・顧問等の役員を選出。登録会員118名。

 かくして発足した東浦同朋会、以後50余年間にわたり聞法研修活動を続けてまいりました。前号所載のとおり例会も回を重ねること301回となりました。いうまでもなく当山の同朋会活動も、真宗大谷派・東本願寺教団の宗門改革運動の一環であります。教団の自浄活動としてこうした運動が惹起するには歴史的必然性があったのです。東西両本願寺・真宗教団の歴史を辿りますと、紆余曲折の語が当たるかどうか、とにかく激動の歩みでした。

 議事終了ししばらく休憩ののち、名古屋教区同朋会駐在教導の大賀晨師の法話を拝聴。法話の中で大賀師は、形だけの信仰でなく、生活していく上に本当の信仰がいかに必要であるか、またその本当の信仰の回復運動がこの同朋会運動であることを説かれました。一旦休憩ののち座談会に移り、同朋会とはどんなことをする会か、会は今後どのように運営したらよいのかなど、熱心に質疑応答・話し合いが行われました。

 戦国乱世の時代、本願寺第8代蓮如(れんにょ)上人(14151499)は、その生涯をかけて教化に当たり、宗祖親鸞聖人の教えを確かめ直しつつ、ひろく民衆に教えをひろめました。このことから、当派では蓮如上人を「真宗再興の上人(中興(ちゅうこう)の祖)」と仰いでいます。京都東山にあった大谷本願寺は、1465(寛正6)年延暦寺宗徒に襲われることなどあって一時退転。蓮如上人の北陸布教の時代を経て1480(文明3)山科に再興。親鸞聖人滅後219年。折しも、当山開基・良空法師が得度したのが1508(永正5)年。

その後本願寺は石山(現在の大阪市中央区)へ移転。しかし、第11代顕如(けんにょ)上人(15431592)の時代に、織田信長との戦い(石山合戦)に敗れ大坂も退去することに。この際、顕如上人の長男教如(きょうにょ)上人(15581614)は、父顕如上人と意見が対立し、石山本願寺に籠城したため義絶。その後、1582(天正10)年には義絶解消。1585(天正13)年豊臣秀吉により大坂天満に本願寺再興。さらに1591(天正19)年京都堀川七条(現在の西本願寺の地)に移転。 

 復帰した教如上人はその後も教化活動を継続。1598(慶長3)年の秀吉没、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いというエポックを経て、1602(慶長7)年に本願寺は京都烏丸六条~七条間の地を徳川家康から寄進を受けました。1603(慶長8)年上野国(現在の群馬県前橋市)の妙安寺(みょうあんじ)から宗祖親鸞聖人の自作と伝えられる御真影( ご しんねい)を迎え入れ、同年阿弥陀堂建立。1604(慶長9) 年御影堂を建立、ここに新たに東本願寺が誕生。以上、当派の本山である真宗本廟・東本願寺の“生い立ちの記”のおそまつ。

因みに、真宗本廟・東本願寺は、その後四度にわたって焼失しており、現在の堂宇は1895(明治28)年に再建されたもの。世界最大の木造建築物である御影堂をはじめとする諸堂宇は、築後百余年を経過。屋根瓦や木部の随所に損傷が見られるところから、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌特別記念事業として、御影堂の修復工事を2004(平成16年)3月に着工。以後、阿弥陀堂、御影堂門等々修復工事が進められ、2015(平成17)年12月をもって全ての工事が完了。その後、奉仕研修施設の同朋会館の改修工事にかかり、この工事も去る7月20日を以て竣工。

話は江戸時代に戻りますが、東本願寺は創立時における家康との関係もあって徳川幕府との関係は良好でした。一方、寺院と門徒の間には、()(だん)関係(檀那寺と檀家の関係)による強固な結び付きがありました。明治時代に入ると、新政府による神仏判然令(神仏分離令)、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)(仏教弾圧)の動きが仏教諸宗にふりかかり、東本願寺も苦境に。さらに幕末の戦火で両堂を失うという災禍に見舞われましたが、厳しい財政状況のなか、全国の門徒による多大なる(こん)(でん)により財政再建・両堂再建が成し遂げられました。

しかし、一方では江戸時代の封建制度の流れを汲む体質を残したまま、近代天皇制国家のもと戦争に協力していくことにもなったのです。そんなななか、尾張名古屋出身で東大卒、当派の僧侶である清沢(きよざわ)満之(まんし)師(1863~1903)は、教団の民主化と近代教学の確立を願い、宗門改革を提唱し、数多の教学者と聞法の学舎を生み出して行きました。

 ただし、こうした「同朋会運動」の潮流は、始めからすべての人たちに受け入れられた訳ではありません。1969(昭和44)年、「同朋会運動」に対抗する勢力により教団問題が顕在化。当時、東本願寺の歴代は、法主(ほっす)(法統伝承者)・本願寺の住職・宗派の管長の三つの職を兼ね絶大な権能を有していたのですが、その権能を利用しようとする側近や第三者が出現。東本願寺が私有化され数々の財産が離散するという危機に瀕したのでした。

また、数々の差別問題が惹起し、旧態依然とした教団の封建的体質が根底から問われることになったのです。 こういった教団の本義を見失うのではないかという危機的状況のなか、当派はこれらを深く懺悔(さんげ)1981(昭和56)年、宗門の最高規範・憲法である「真宗大谷派宗憲」を改正。「同朋社会(どうほうしゃかい)顕現(けんげん)」(存在意義)・「宗本一体(しゅうほんいったい)」(組織理念:宗派と本山の一体化)・「同朋公議(どうほうこうぎ)」(運営理念)の三本柱を根幹として改正。一人ひとりが信心に目覚め、混迷する現代社会に人として本当に生きる道を問いかけていくことを課題とし、純粋なる信仰運動「同朋会運動」がここに歩み始めたのです。

合掌   

2018/8/3前住職・本田眞哉・記

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