法 話

(210)「教化伝道(8)」

 

 
大府市と東浦町の境界に建つ道路標識

 

年回法要と周年事業

 

 

当山では、来春の親鸞聖人七百五十回御遠忌法要勤修に向けて、記念事業への取り組みを鋭意推進しています。記念事業のメインであります山門建て替え工事は、袖壁も含めて今年3月に完了。総欅造り本瓦葺きの旧山門は寛保年間の建立で、築後270年有余。建て替えの山門も、様式・大きさとも旧山門同様とする方針で設計を依頼。全容を現した新山門は、立地はもちろん欅造りの本体や扉、屋根瓦に至るまで旧山門を再現したかたち。

山門に次ぐ大きな事業が鐘楼の修復。海岸段丘突端に建つ鐘楼は、150年余の風雪に耐えてきましたが、東側・南側の傷みが激しく、部分補修。径30㎝超の丸柱の傷んだ部分を切り取って、新材を継ぎ足すという難工法。神谷工務店の棟梁は、この難工法を見事クリア。継ぎ目は全く分からず、髪の毛も入らないほど密着。加えて、(ぬき)4丁入れ替え。これまた、高さ20㎝、幅12㎝、長さ350㎝の貫を、鐘楼本体を解体することなく建ったままの状態で入れ替えるという離れ業。これまた見事に成功。

はたまた、境内外周を巡る外周塀も出来上がりました。山門より西へ64m、同じく東へ33m、合計100mに垂んとする超ロング外周塀。高さ144㎝の屋根付き板塀。屋根直下には白壁紛いの乳白色のアクリル板を設えて。コンクリート板やコンクリートブロックの塀が生まれ変わりました。折しも、地震でコンクリートブロック塀が倒れ児童が圧死したとの報道が繰り返されるなか、タイムリーな方策であったと自負。

加えて、山門前の築地塀の建て替えもこの八月末で完工。前の築地塀より遙かに立派に。赤土積み上げて造った前者に対して、今回はコンクリートの基礎並びに真壁に、木製の芯と板塀を組み合わせて構成。屋根は縄勾配つきの瓦葺き。見付の妻には、懸魚まで付いた破風板。グーッ! この西の築地塀の直近に計画通りトイレもほぼ完成。旧山門の欅の骨材と扉を再利用。時流に乗ってリサイクル。

ただ、懸案事項が一つ。それは鐘楼の修復。当初計画で屋根の全面葺き替えが盛り込まれたものの、計画策定の最終段階で不要となったところから、事業予算には計上しませんでした。ところが後刻精査したところ、やはり全面葺き替えが必要ということに。しからば、補正予算を組まなければということで、近々総代会で検討することになりました。来春の親鸞聖人七百回五十回御遠忌法要勤修に向けて、さらなる奮励努力が求められています。

今回お勤めするのは「七百五十回御遠忌」。以前にもこの欄で触れたところですが、真宗では一般家庭も寺も年回法要は、一周忌・三回忌・七回忌五十回忌とお勤めすることになっています。五十回忌以降は、百回忌、百五十回忌というように五十年スパン。親鸞聖人の「年回」は「七百五十回忌」。この段階になると、五十年間隔になることから、「遠」の字加わることになります。

ところで、年回法要をお勤めする日取りについてお訊ねを受けることがしばしばあります。一週間前、ひと月前にご予約の申し込みをされる方もありますが、半年前一年前の方もあります。土曜日と日曜日はご希望の方が多く、特に午前中はご希望に添えないケースが数多。そこで日程調整をするわけですが、多くの方が正当の命日より前に勤めたい、と。その訳は、世の人いわく「命日を過ぎてからお勤めするのは先祖を粗末にすることだ」と。

しかし、これ間違い。例えば、三回忌の正当命日は命終された日から丸2年経た日、3年目の初日。その日から1年の間に法要をお勤めすればよろしいわけ。ところが、一般的にはその正当命日より前に勤めなくっちゃと。ただ、一周忌だけは命終されてから丸1年を経た日。その伝でいえば、一周忌のみは正当命日より前にお勤めした方がよろしいかと。三()忌は命終された日から丸2年経た日。ですから、一周忌をお勤めした翌年が三回忌。三周忌はありません。

蛇足ながら、当山ではご門徒の年回正当繰り出しについては三通りの方途でお知らせしております。第一は本堂の大間に該当の方の回忌・法名・命日・地区名・当主名を掲出。第二の方途は、寺報『受教』に四半期毎、回忌・命日・当主のお名前を掲載してお知らせします。第三は、パソコンの年回繰り出しのデータから、該当の方の法名・命日等を抽出して郵送するというシステム。

「回忌」と似て否なるフレーズに「周年」があります。例えば、「百回忌」と「百周年」。その違いは、シニア感覚でいえば、〝数え年〟と〝満年齢〟かな? 先頃、愛知県立刈谷高等学校同窓会から『刈髙同窓会年報』を頂戴しました。その中に「創立百周年記念事業」の囲み記事。記念事業は、113日の創立百周年記念式典の開催と「刈谷高等学校写真百年史」「刈谷高校百周年記念誌」の発行。なお、私は1955五(昭和30)年卒業の第7回生。

周年事業といえば、もう一つ。それはわが東浦町の町政70周年。1948(昭和23)年6月に町政を施行してから数えて今年で70年。町は節目の年には各種記念事業・行事を企画実施。私にとって最も印象に残っているのが町政10周年。町章の図案募集が町民に呼びかけられ、私も応募。74点の応募作品の中から私の作品が入選しました。当時の『中日新聞』によりますと、私の他に佳作が、平林悦次郎、平林廣己、平林俊一、戸田州一、加藤えみ子、篠田弘明の6氏。爾来、このロゴは町の広報誌やホームページはもちろん、公共施設等多方面で標示されています。光栄の至り。

 【追記】このロゴの意味するところについて些か解説を加えましょう。先ず全体のイメージは東浦の。三角は東浦の躍進を、丸は円満・和合を現したもの。の字は6地区の協力を象徴したもの。

合掌

 

2018/9/3前住職・本田眞哉・記

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