法 話

(215)教化伝道(12)

 

 
大府市S・E氏提供

大法要勤修の歩み(4)

前回の「大法要の歩み(3)」の記述は、2004327日に勤修した「蓮如上人五百回御遠忌法要」の次第を、脳裏に刻まれたデータを掘り起こしながらキー・ボードを叩いて文字化したものです。したがって、事実との食い違いや誤った思い込みの部分もあったかと思いますがお赦しのほどを。なお遅まきながら、蓮如上人は我が真宗大谷派の第八世門主、本山・東本願寺の第八代住職。

時代は室町時代。1415(応永22)年225日、京都東山で本願寺第七代存如上人の長子として出生。母は存如上人の母に給仕した女性と伝えられていますが、詳細は不明。一説には、現在の大阪府和泉市の被差別部落出身だったともいわれています。幼名は布袋(ほてい)(まる)(いみな)は兼壽、院号は信證院。1882(明治15)年に、明治天皇より「慧燈大師」諡号(しごう)を追贈されています。1431(永享3)年17歳の時中納言広橋兼郷の猶子(ゆうし)となって青蓮院で得度。

不遇の中で成長し、興福寺大乗院の門跡経覚について宗派を超えて修学。父存如上人からは真宗教義を学ぶとともに、衰退の極にあった本願寺教団の再興に心を砕いたといわれます。父を補佐し近江・北陸の教化に力を注ぎ、東国に親鸞聖人の旧跡を歴訪したとのこと。1457(長禄元)年43歳の時、父の遷化に遇い伝灯を継承。引き続き近江の教化を進めましたが、もうこのころ既に本願寺教団は面目を一新し、往時の姿に復していました。

しかし、こうした本願寺教団の再生を嫉妬してか、延暦寺は1465(寛正6)年18日本願寺と蓮如を「仏敵」と認定。翌19日同寺西塔の衆徒は大谷本願寺を破却。加えて321日再度これを破却。これを受けて、蓮如上人は1471(文明3)年、越前吉崎に坊舎を建て「御文」を作成するとともに、「正信偈」や「和讃」を刊行し独創的な伝道を展開。かくして吉崎御坊は北陸における教線拡張の根本道場となり、頗る多くの道俗が帰参。今日の北陸に於ける本願寺教団の礎が築かれたのです。

戦国期に入って1460代年代、本願寺第八代蓮如上人は自らがまで布教のために足を運び、教団拡大作戦を展開。三河国佐々木上宮寺の如光に十字名号を下付したり、巧みな布教活動に力を注いだりして、有力寺院を一向宗本願寺派へ転向させることに成功。この巡化によって開創・転宗したと伝えられる寺院は数多。その代表格が佐々木の「上宮寺」、野寺の「本證寺」、針先の「勝鬘寺」の「三河三が寺」。その他、西三河の西端、鷲塚、土呂などの地区でも転宗寺院が出現し、蓮如教学が人々に浸透していきました。

当山了願寺は、尾張の国の東南端知多半島の付け根に立地し西三河までは1㎞弱。文字どおり両国の(さかい)川を挟んで隣接。したがって、従前より日常生活においても西三河、特に現・刈谷市とは密接な交流があります。私自身も刈谷高等学校へ自転車通学し、お抹茶を買うのも刈谷、電気製品や文房具を買うのも刈谷。現在でも、総合病院となると刈谷へ出向きます。500年前も当地と西三河との交流は盛んだったのでしょう、蓮如上人のご教化の波は当地にも及び、当山も転宗しました。

寺院沿革(昭和年代初期)には「元 ()命寺(みょうじ)ト号シ天台宗を傅ヘ海濱ニアリ(明應・永正年代、良範法師代)シガ 良空法師ノ代 天台宗ヨリ眞宗東派ニ改宗シ 寺名モ今ノ了願寺ト改メ 天正十六年今ノ所ニ移リ 良因法師ノ代 即 文政八年本山ヨリ 山号 受教山ヺ許サル」と記載されております。このことから当山は、大府の天台宗延命寺(現存)の下寺から浄土真宗に転宗したことが分かります。そして、他の古文書には「本證寺下 尾州知多郡緒川村 了願寺」と揮毫されています。

加えて、当山と西三河との繋がりで忘れてはならない一件があります。それは「(あい)焼香(じょうこう)」。エッそれ何のこと? 恐らくご覧いただいている方の90%以上の方が抱かれる疑問でしょう。文字どおりお互いに焼香し合うこと。焼香に象徴される行為は法式の導師を勤めること。具体的にいえば、2ヶ寺が1組となり、寺院での葬式や法事などの場合にそれぞれが導師となり、お勤めをしあうシステム。当山の相焼香は刈谷市の専光寺様。まさに当山と西三河の繋がりを象徴する重要ポイント。

その専光寺様の先々代住職が日下無倫(くさかむりん)師。大谷大学教授で真宗史学研究の大御所。大学生の指導に力を尽くされるとともに、数々の論文を発表・刊行されました。今本稿をタイピング中の寺務所「法輪閣」の書棚に日下先生の御著『眞宗史の研究』(昭和6年刊・838ページ)が存在感豊かに置かれています。一方、ウェブサイト上でも偶然先生の論文を拝見。アドレスは. otani.repo.nii.ac.jp/。論文集は『大谷學報 第十七巻 第四號』。タイトルは「三河の國に於ける眞宗教團の發展」。

その中で、江戸時代中期の本證寺について、下寺が125ヵ寺あったと(したた)められています。内訳は、岡崎:14、西尾:26、刈谷:13、重原:11、大濱:10、その他:51。当山は刈谷に隣接しているものの、その他の中にカウントされているものと思われます。遡って、本證寺がこれほど強大な念仏勢力?を有するようになった発端はいうまでもなく蓮如上人のご巡化。上宮寺の如光法師が蓮如上人に感化されたのを嚆矢として三河国の三つの大寺が本願寺派に転宗。まさに上人の功績大。上人が本願寺教団の「中興の祖」といわれる所以でしょう。

蓮如上人が本願寺教団の教主として門徒の教化に勤められたことはいうまでもないことですが、宗祖親鸞聖人のご化導とはどんな違いがあるのでしょう。独断と偏見で私見を述べれば、親鸞聖人は論理派、蓮如上人は実践派といったらよろしいか、と。親鸞聖人は『教行信證(きょうぎょうしんしょう)はじめ数多くの著作をされました。崇高な純粋教義が難解?な文章で残されています。一方、蓮如上人はワラジによる教化と申しましょうか、全国津々浦々へご巡化の足を運ばれました。そこで膝を交え、ただ一つの著作といいましょうか『御文(おふみ)』を〝教材〟にして教えを説かれたので

今日でも、法要や勤行・読経の最後に、平易な文章で教義を噛み砕いて説いた『御文』を拝読するのが当派の作法となっています。正面・本尊に向かってではなく、膝をやや斜めに向けてご参詣のご門徒に語りかけるように。上人の膝詰め談義の名残でしょうか。『御文』はご門徒に授与された消息(手紙)のことで、その数は不明ですが、上人の孫圓如上人が二百数十通の中から八十通を選んで五帖に編集。その中で人口に膾炙し、心に響く一通が以下の「白骨の御文」。

    

白骨(はっこつ)()(ふみ)ひらがな・現代仮名遣い)

それ、人間の浮生( ふ しょう  )なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中(しちゅう)(じゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いち ご)なり。 

されば、いまだ(まん)(ざい)人身(にんじん)をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。(われ)や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の(つゆ)より繁しと言えり。 

されば、(あした)には紅顔(こうがん)ありて(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、(とう)()の装いを失いぬるときは、六親眷属(けんぞく)あつまりて嘆き悲しめども、(さら)にその甲斐(かい)あるべからず。 

さてしもあるべき事ならねばとて、野外(やがい)に送りて夜半(よわ)の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれといふも、中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少不定(ふじょう)のさかいなれば、たれの人もはやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)を深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ

合掌

2019/2/3前住職・本田眞哉・記

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