法 話
(216)「教化伝道(13)」
大府市S・E氏提供 |
大法要勤修の歩み(5)
前回は2004年3月27日に勤修した「蓮如上人五百回御遠忌法要」に鑑み,蓮如上人の教化伝道活動の業績に触れました。なかでも、三河地区では数多の寺院・檀徒が念仏の教えに転派・転宗し、現在の三河門徒の礎が築かれました。これ偏に蓮如上人のご教化の賜です。当山も国境を越えた上人のご教化の流れのなかで、天台宗「帰命寺」から浄土真宗に転派し「了願寺」が開創。時に1522(大永2)年、良空法師が初代住職就任。今から497年前のこと。
爾来、代々住職がご門徒ともども法灯を受け継ぎ伝え今日に至っております。3年後の2022年には開創500年を迎えます。記念法要・記念事業を計画することになるかも。
現住職は第17代、前住職の私が第16代。徳川政権の江戸幕府より前の織豊政権、否もっと前の室町時代より続く了願寺の伝灯。受け継ぎ伝える一代を担うご縁を戴き、その重さをひしひしと感じつつ50年余、17代の現住職にバトンタッチできたことに思いを馳せ、今さながら充足感に浸っている今日この頃です。
思い起こせば50年余の住職在任中、実にいろいろなことが起こり、様々な困難に直面し、押し寄せる苦難に胸を痛めたこともありました。一方、難事を乗り越えて慶びを得て涙したこともありました。そうしたなか、表題の「大法要」を勤修させていただくご縁に恵まれたことは、慶びの中の慶びでした。もちろんこうした大法要は、住職の一存、一朝一夕の思いつきで勤められるものではありません。
発願に始まり、門徒総代・世話人等役員との協議。協議内容は、法要の趣意・記念事業計画の検討・予算案の策定・募財計画の立案とご依頼・寄付金収納額と事業出費のバランス・記念事業施工計画の決定・競争入札による施工業者の選定・施工・そして完工というプロセスを経なければなりません。もちろんその都度役員会・委員会を開き当面する問題を処理しつつ事業計画を推進していくことになります。いくら慎重審議し綿密に立案した事業計画でも、実施段階になると必ず問題が発生します。
かくして記念事業が円成し、いよいよ法要勤修当日を迎えることとなります。記念事業工事には2~3年、あるいは3~5年の年月を要することが多いようですが、少なくとも法要勤修期日の一か月前までには竣工を見たいものです。仄聞するところに依れば、法要前日まで仕上げ作業が続けられたケースもあったとか。当山の今回の大法要「親鸞聖人七百五十回御遠忌法要」は、来る3月31日(日)に勤修。記念事業工事は、山門とトイレの建て替え・鐘楼の修復・周囲塀の建て替えですが、先月初めに全て竣工、今や法要当日を待つばかり。
記念事業工事は円成したとはいえ、親鸞聖人七百五十回御遠忌法要に向けて〝準備万端調った〟とは言いがたいところです。以下の懸案事項をクリアしなければなりません。法要当日の役員・委員の担当部署の設定、駐車場案内看板の作製と設置、稚児行列のための自然階・誘導路等の仮設、一般参詣者用の法要次第等資料の作成・封筒詰め、関係業者への感謝状の作成、下足袋・下足札の準備、稚児衣装借り受・着付け会場の設営、法中・声明方・楽僧控え室の設営、差定(法要次第)の作成、登高座具・華籠皿・経本・草鞋・楽喚鐘等法具の点検etc.
数々の課題をご門徒の皆さんともども一つ一つ検討処理しつつ法要本番当日を迎えることができると確信しているところです。私自身にとって、こうした場面に関わることは生涯最後のご縁だと思っています。50余年間の住職在任中に4回大法要勤修のご縁を戴きました。そして、今回は前住職の立場ながら生涯5回目のご縁に恵まれたわけです。実に感慨無量、これにすぐるものはありません。
思い起こせば住職拝命の年、1959(昭和34)年9月26日(土)、過去最大級の「伊勢湾台風」が襲来。本堂はじめ、境内の伽藍に甚大な被害をもたらしました。住職就任の初仕事が台風被害の対応ということに。役員会に諮り、取り敢えず日常業務に支障がないように応急修理することを決定。ところが、応急修理未完の翌々1961(昭和36)年、第二室戸台風に見舞われ、終日大風が吹き荒れました。
役員会では、被害状況を調べ検討に検討を重ねた結果、屋根全葺き替えも含む本格的な大修復工事計画が纏められました。募財活動を進めると同時に、ご門徒の〝堂宮大工〟さんに本堂の建て起こしをはじめ、耐震筋交いの挿入、屋根下地の張り替え、床板の補修、小屋組の楔締め等々の作業を、専門知識を駆使して進めて戴きました。壁工事も左官職のご門徒が奉仕的精神で施工。壁土や屋根下地土もご門徒が耕耘機を持ち込んで練り上げてくださいました。皆さんの「勤労奉仕」が工事推進に貢献。。
本堂の屋根は縄勾配の急斜面。屋根葺きも特殊技能が求められます。そこで施工をお願いしたのが、再建名古屋城の屋根を手がけられた「亀蔦瓦工業所」。卓越した技術で見事に完工。180年振りに勇姿が甦りました。内陣荘厳の修復も求められましたが、躯体工事を優先したため小規模に。改装なった本堂で、住職・役員「折角だから御遠忌法要をお勤めしたら」との声。その声が拡大し1964(昭和39)年12月に実現。「親鸞聖人七百回御遠忌法要」を勤修することができました。
法要終わって寺門は静けさを取り戻し、事業活動は伽藍の〝中身〟である門法・教化活動にその焦点を移行することになりました。折しも宗門の「同朋会運動」が展開され、当山も「特別伝道」等の啓発活動の流れをくみ「東浦同朋会」を結成。以来、同朋会運動の例会活動は連綿と続き、現在第305回をカウント。そうしたなか、本山東本願寺では親鸞聖人御誕生八百年の慶讃法要が厳修され、末寺でも同法要を勤める機運が高まってきました。
当山としても「親鸞聖人御誕生八百年慶讃法要」勤修を発願。記念事業は、書院・会館棟及び玄関棟の新築。役員会に諮り、書院・会館棟は鉄筋コンクリート造で屋根は燻し銀瓦葺き、玄関棟は木造と決定。設計は総代の知人の一級建築士に依頼。施工業者は数社による競争入札で決定。設計途中で建築基準法が改定され、耐震基準を見直すというハプニングもあり、やや混乱。しかし着工後は順調に推移し、大法要期日には余裕を持って竣工。慶讃法要は、前回の大法要から18年を経て1982(昭和57)年4月18日に勤修。
慶讃法要から時は流れて10年余。炎暑のさなか、ある日突然庫裡の天井でドーンという轟音。天井を見上げても異常なし。遠くから庫裡の屋根を見ると、アレッ!ぽっかりと大穴。大屋根の真ん中、瓦も下地も抜け落ちています。抜け落ちた瓦礫は吊り天井が保持、室内には落下しなかった模様。青シートを被せて雨漏りを防止。早速役員会を開き対応を協議。当時で築250年、しかも旧酒蔵を移築再利用したとか。建て替えやむを得ずの結論。問題は建て替えのコンセプト。
屋根が抜けたとはいえ、太い梁や鴨居や中戸は健在。これらを再利用したい。いわゆる「古民家再生」。当時報道でも度々取り上げられたテーマ。有名な建築家が降幡廣信先生。松本市の建築事務所に直接コンタクト。こちらの申し入れを快諾戴き、「古民家再生」の設計作業を開始。1年余の月日をかけて図面と仕様書が完成。競争入札で施工業者決定とおきまりのコース。1年余の工期で竣工。玄関ホールを見上げると直径80㎝以上の太さの旧庫裡の荒削りの梁が十文字に組まれて見事。
外観も古民家風でどっしりと、境内に落ち着いた雰囲気を醸し出しています。ご寄付戴いたご門徒の皆さんに謝意を表するとともに、落成を慶ぶ落慶法要を勤修しました。時に1996(平成8)11月9日。新庫裡には、多目的ホール、住職執務室、法衣室、応接室、来客用手洗い等を新設。住職・寺族の居住スペースも利便性が大幅に向上。そして星霜流れて8年、生涯第4回目の大法要を勤修するご縁を戴きました。その概要は、前々回の当HP で記述させていただきました「蓮如上人五百回御遠忌法要」。2004(平成16)年3月27日に勤修。
以上、私の住職在任中にご縁を戴いた大法要について、纏まりのない拙文をだらだらと記しまして失礼。向後50年先、あるいは100年先に当山が大法要勤修を企画する場合に些かの参考になれば、との願いのもとキーボードを叩いて文字化を試みた次第。と申しますのも、先代、先々代住職も勤修されたであろう記録が見当たらず、法要の企画立ち上げに際して大変苦労しました。その苦い経験から、後世に記録を残そうと思い立った次第。以上をもって、シリーズ「大法要の歩み」を終了します。
合掌
《2019/3/3前住職・本田眞哉・記》