法 話

(217)大法要勤修

 

 
大府市・共和カメラさん提供

御遠忌法要あれこれ(1)

 去る331(日)当山了願寺では「宗祖親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)七百五十回御遠忌(ごえんき)法要」を無事勤修することができました。関係各位に深甚の謝意を表します。感謝・感激の極みです。2016年春、住職が法要勤修を発願。以後、責役総代会を始め諸会議の議を経て事業計画を立ち上げました。先ずは記念事業の策定。当山では50年ほど前から、度重なる災害や経年劣化に対応して修繕修復事業を企画実施し、伽藍の維持管理に勤めてまいりました。そして、事業落慶(らっけい)と同時に御遠忌法要等の大法要をお勤めさせていただきました。

 今回の御遠忌法要の記念事業のメインは山門の建て替え。山門は築後270年余を経ておりまして、山内現存の建物では最古。海抜9㍍余の海岸段丘の突端に位置しながら、史上稀に見る猛烈台風「伊勢湾台風」に遇っても倒壊することもなく偉容を保っていました。大地震にも耐えてきました。記憶を辿れば、1944(昭和19)年127日に「東海地震」(後に「東南海地震」)が発生。折しも翌128日は「大東亜戦争」の開戦記念日。戦意喪失を恐れてか、はたまた報道管制のためか地震に関する新聞記事は僅少でした。

 その直後1945(昭和20)年113日にも「三河地震」が発生。当地は「尾張」ながら「三河」の地までは1㎞弱。大揺れに見舞われたことはいわずもがな。にも拘わらず我が山門は倒壊を免れました。さらに遡れば、明治時代に発生した「濃尾地震」にも遭遇。1891(明治24)年1028638分に発生。今は亡き祖母から得た情報では、地震波が襲来した時は親鸞聖人のご命日の朝のお勤めの最中だったとのこと。住職は、大揺れの本堂の中でローソクとお灯明の火を消すのに大童だったとか。

そもそも山門は4本の柱のみで張り出した重量屋根を支える構造。壁もなく筋交いも無く、日本古来の伝統工法。「耐震」の声が喧しいなか、この構造でよくもまあ生き延びて?来たものだなあ、と感心すること頻り。建て替えに当たっては、住職の強い意向で、大きさ、構造、屋根勾配、破風、瓦等々、全て旧山門に倣うというコンセプトで基本設計をお願いしました。設計・管理は半田市の伊東建築事務所。2016(平成28)年11月中旬に設計図及び仕様書が出来上がり、入札説明会を開催。

12月に応札4社について見積もり審査。名古屋市の㈱魚津社寺工務店が最低見積額で落札。12月開催の第4回御遠忌委員会で施工業者を最終決定。工期は2017(平成29)年41日~同年1030日。年が明けて123日(月)に工事請負契約を、発注者:了願寺 住職 本田眞、 請負者:株式会社 魚津社寺工務店 代表取締役 魚津忠広 との間で締結。当山及び魚津社寺工務店とも諸準備を整えて、了願寺山門新築工事起工式を49日執行。

起工式といえば、官・民ともに現地にテント設え机椅子などを並べ、盛り砂に笹などをセットするのが一般的のようです。そして神主により神式で執り行われます。しかし当山の場合は仏式で営みます。先ず本堂で勤行。次ぎに一同山門の現地に移動。ここで鍬入れ。最初に住職。次ぎに設計・監理担当の伊東建築事務所、最後は㈱魚津社寺工務店。参列者一同記念撮影を済ませ、会館へ移動。乾杯のあと委員長挨拶。続いて伊東建築事務所、㈱魚津社寺工務店、神谷工務店の代表から挨拶をいただきました。

いよいよ着工。先ずは旧山門の解体工事。瓦を下ろし、葺き土を取り去り、野地板を剥がし、構造材のみのかたちで移動。と申しますのは、トイレ工事担当神谷工務店の神谷健司代表の提案で旧山門の構造材をトイレ建て替えに再利用することに。いわゆるリサイクルのアイディア。クレーンで吊り上げ10㍍ほど離れたところに出来上がったトイレの基礎の上に静かに降ろすという寸法。見事に安着、OK。一方、柱礎石のみとなった山門敷地ではすべて掘り起こし基礎工事を開始。「耐震」が求められるなか、深く掘削して鉄筋を組み生コンクリートを流し込んで頑丈な基礎が出来上がりました。

柱を立ち上げいよいよ「上棟式」(建て前)。起工式同様先ず本堂で法要。棟木に取り付ける棟札を中尊前に安置して住職が読経。読経中に委員長以下委員各位と請負業者の代表が焼香。法要終わって一同会館へ移動。ここで委員長・住職・請負業者が挨拶。最後に、棟上げを祝して一同乾杯。時に2017(平成29)年913日。因みに、幅約30㎝高さ約90㎝の棟札への揮毫は「受教山 了願寺 山門新築 願主 十七世 本田眞 十六世 本田眞哉」。この棟札、棟木に取り付けられ、行く末長く歴史の1ページとして残ることになろうかと。

なお、旧山門の棟木には棟札は取り付けられていなかった模様。一方、束柱(つかばしら)(ほぞ)の部分に「元?禄三年九月ヨリ十二月…」とか「久三郎五十五才」とかの殴り書きが見つかりました。しかし、肝心の元号の部分が欠けており判読が困難。多分「元禄」でなかろうかと。折しも昨日新元号「令和」が発表され、本日付の『中日新聞』には「元号総覧」の特集。それによりますと、17世紀以降で「禄」が着く元号は「元禄」のみ。となると元禄三年は西暦1690年、今から329年前になる勘定。今回の御遠忌関連で謳って来ました前記「270余年」は「320余年」に訂正することになろうかと。

以後、工事は順調に進捗し10月中には屋根葺き工事は完了。11月にはほぼ完工、仮設足場等が取り払われ、扉は未設置ながら勇姿を現しました。大きさ、構造、スタイルとも旧山門と同じ。破風も懸魚も本葺き瓦屋根も。ただ一点違うのが軒丸瓦と鬼瓦。旧山門の軒丸瓦と鬼瓦には一文字に三つ団子の紋が着いていました。この紋は「永井家」の家紋。なぜ左立ち葵の了願寺・本田家の紋でないのか。そのわけは、旧山門は永井家が単独で寄進されたからです。

ところで、その永井家と当山との関係は如何。永井家は当山最古のご門徒。過去帳に依りますと、永井家の初代永井正直氏は1659(万治2)年128日に76歳で命終。法名は「(ちょう)(がん)(いん)釋良善」。今から360年前のこと。永井家はもと三河のご出身で緒川村に転住。当山とのご縁が結ばれた所以。その後現在の大慶橋近くの南区鳴尾町に居を移されました。永井威三郎氏の著書『風樹の年輪』によりますと、正直氏は当時23歳。当時の鳴尾は海辺で製塩と塩問屋を営んでいたとのこと。院号「潮岸院」、(むべ)なるかな。永井家14代を始めご一統の墓碑が30余基、本堂裏の墓地に整然と列んでいます。なお、永井荷風はご一統の出身。

合掌

2019/04/02前住職・本田眞哉・記

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