法 話

(218)大法要勤修

 

 
大府市S・E氏提供

  

  

御遠忌法要あれこれ(2)

 

 

親鸞聖人七百五十回御遠忌記念事業のメインは山門の建て替え。そして、その設計・施工のコンセプトは、大きさ、構造、スタイルとも旧山門と同じように、ということでスタート。さらに破風や懸魚や本葺き瓦屋根についても同様の考え方で。ただその中で一点、軒丸瓦と鬼瓦の定紋が一文字に三つ団子の永井家の紋から、本田家・了願寺の左立ち葵の定紋へ変わったことについては前号で記したとおりですが、もう一点変更された部分があります。

それは「潜り戸」。その役目はどこにあるのでしょう。それを尋ねる前に、山門の様式を調べてみました。実の数多くの「門」がありました。四脚門・八脚門・薬医門・棟門・唐門・向唐門・平唐門・楼門・二重門・鐘楼門。当山の山門は「薬医門(やくいもん)」。一見柱が4本あるように見えますが、門柱(本柱)は2本。後(内)側の2本は控柱。この様式の特徴は、門柱の両脇にある袖塀に潜り戸があること。当山の場合は左脇に設けられていましたが、中には両脇に付けられている例もあるとか。

さてその潜り戸、何のために設けられているのか、それは薬医門のネーミングに遡ると明らかになるかも。もともとは文字どおり医院の門で、一説には門が閉まってから急患や薬を求める人が楽に出入りできるように作られたとか。なるほど。私自身も、閉門後に門外の新聞受けの夕刊を取りに行くとか、夜のお参りに出かけるときに潜り戸を利用した記憶があります。当時は、境内地から境外地・公道へ通じる開口部は山門のみ。閉門後の潜り戸の有用性がお分かり戴けるかと。

車社会に対応して60年ほど前に通用門を開設。通用門は門扉無しのオープン状態。加えて1973(昭和48)年、竹藪や畑を切り開いて第二次参道・駐車場工事を実施したことによって〝開かれた寺院〟に。聞こえはよろしいが、現状全く無防備。したがって、潜り戸は無用ということになり、設計の段階で図面からカット。それはそれとして、そんな無防備状態でいいのか、とお叱りを受けることになろうかと。おっしゃるとおり、一応その対策は講じております。

一つには、ご存じインターホン。どこの家庭にも設置されているアイテム。ボタンは2箇所。それぞれのメロディーを発信。電話機で映像と音声を受けて対応。併せて遠赤外線人感センサーも玄関に設置。人の動きを感知して信号を電波に乗せ、複数箇所で受信。軽やかなメロディーで来客を報せてくれます。さらに、中庭や坪庭には、人の動きを感知するとブザーとともにライトが点滅するセンサーライトを3基設置。しかしこのアラームシステム、意外な落とし穴がありました。それは、センサーが野良猫や台風時の強風にあおられた庭木の枝を感知しての発信すること。

極めつけはハイテク?システム。ただし、難点はシステムの高齢化。新設したのは今から20年ほど前。アナログカメラを使っての手作りシステム。アメ横あたりで単体のテレビカメラを購入。形や大きさは様々。最小は3㎝角。設置場所は本堂内や会館、玄関等。外部は、参道、駐車場、墓地、本堂前庭等々。合計10余台。取り付けは素人の私。若かったからできたのですが、高所が大変。特に、駐車場・墓地の外灯のポールの天辺。また、無線カメラは無く全て有線で、配線作業も大仕事。使った同軸ケーブルの総延長は300㍍になろうかと。リビングにスイッチャーとモニターをセットしてシステム完了。

昨年末、第二駐車場の整備工事完了にともないカメラを1台増設。当初はソーラー発電パネルを付けたワイヤレスカメラにしようかなと考えましたが、受信場所との直線距離が50㍍余り。しかもその間に本堂が建っているため電波が遮られダメということで、有線に。カメラは220万画素。アナログ・デジタル両用で赤外線暗視機能内蔵の最新型。初期設置のカメラとは雲泥の差。配線はといえば、カメラ端末から10㍍ほどのところにある外灯まで映像・電源一体型のケーブルで導き、既設カメラの同軸に接続するという寸法。

セキュリテイ談義長々と失礼、本題の山門に戻りましょう。そう、山門建て替え工事は11月末でほぼ完了。ただ、門扉の取り付けや塗装工事が未完の状態。2018(平成30)年が明けて1月末には、門扉が取り付けられ、塗装工事も終わり山門工事は竣工。一方、袖塀から直角に延びる2本の築地塀は、コンクリートの芯壁が建っているだけで、無味乾燥の状態。この状態はしばらく続くことに。なぜかといえば、ここで鐘楼の修復工事が入ったのです。

鐘楼の修復工事、先ずは老朽化した貫の取り替えと丸柱の部分補修。海抜9㍍の海岸段丘の突端に建つこの鐘楼、築後百数十年の年月を経るなか、度重なる台風の襲来を受けかなり傷んでおります。特に東面と南面。幅12㌢高さ20㌢長さ350㌢ほどの貫は風化し痩せ細っています。丸柱に差し込んだ部分も指が入るほどに腐食。上下合計8丁ある貫の内4丁を入れ替え。また丸柱2本については、痛んだ部分を切り取って新材を継ぎ足すという、いわゆる〝掛け接ぎ〟の難工法。見事成功。いずれも本体を解体することなく。

この鐘楼については隠された負の歴史があります(チト大袈裟?)。それは〝戦災〟。といっても空襲に遭ったわけではありません。記憶が定かではありませんが、大東亜戦争(太平洋戦争)のさなか、1993(昭和18)~1944(昭和19)年ごろのこと。敵機の空襲に備えて、防空壕を造らなければならなくなりました。最初は本堂前の庭に、深さ170㌢広さ3畳ほどの穴を掘り、その上に木材で屋根を作り、古瓦を乗せるという方式の防空壕を造りました。作業に携わった方は外国人だった記憶。

ところが空襲が激しくなって、こうした構造の防空壕では爆撃に耐えられないということで、横穴式の防空壕を造ることが求められました。隣保班の班長が来山して「鐘撞き堂の下の土手に防空壕を造らせてもらえないだろうか」と。当時の情勢では断ったら非国民扱い、母は止む無く承知したとのこと。鐘楼から78㍍下にある道路から横穴の掘削を開始。もちろん手掘り。隣近所の人たちが、鍬やシャベルを手に懸命作業。大変な重労働なので充分な壕の高さを確保できず、大人は背をかがめて進まなければなりません。

テレビはもちろん、防災無線やメールやスマホといった情報アイテムがない時代。空襲警報の発令は火の見櫓のサイレン。サイレンが鳴ると、急ぎ巻き脚絆(ゲートル)を脚に巻き、非常袋を肩から掛け、防空頭巾を被って防空壕へ一目散。壕内は既に先客で満員状態。何もすることがないので、取り留めもない会話で時を過ごすほかありません。警報が解除されるとヤレヤレ。そそくさとみんな家へ。私にとって未だに分からないのは、警報解除の報をどのようにして得たのか。警報解除を伝えるサイレンの間欠吹鳴があったのだろうか…。

合掌

2019/05/02前住職・本田眞哉・記

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