法 話

(219)大法要勤修

 

 
大府市S・E氏提供

  

 

御遠忌法要あれこれ(3)

  

寒い時期のある朝、前夜防空壕へ避難した時持ち込んだ布団を取りに行ったときのこと。炭状になった紙や紙の燃えかすが庭に落ちていました。よくよく見ると、経典の漢字が読み取れました。名古屋のどこかのお寺が空襲で炎上、その灰や燃えかすが北風に乗って30㎞、当地まで飛来したのでしょう。何とも胸が痛くなるできごとでした。そして1945(昭和20)年815日大東亜戦争が終結。正午の玉音放送を自宅のラジオで聞きましたが、雑音も多く国民学校3年生の私には、陛下が何を仰っているかサッパリ分かりませんでした。

不要になった防空壕、埋め戻さなければなりません。皆さんが勤労奉仕で作業して下さいましたが、横穴を埋め戻すということは大変なこと。垂直の埋め戻しならば、穴に土を入れ、あるいは水を加えて、万有引力の力を借りて上から加圧すれば、充分とはいわないまでも元に復することができます。しかし、横穴防空壕の埋め戻しは困難を極め、充分ではなかったようです。結果、後々徐々に鐘楼(しょうろう)の地盤沈下が進行。特に、東南の角。崖っぷちまで数十㌢のところにある石垣が緩んで口を開け、丸柱の基礎も沈下して鐘楼本体が傾いてしまいました。

終戦から20年余を経た1969(昭和44)年、車社会に対応して車参道を開設することを企画。その中で防空壕を掘った崖も岩組にすることを決定。同時に鐘楼の石垣も積み直し、沈下した柱基礎も修復することになりました。そもそも鐘楼とは、梵鐘(ぼんしょう)が吊ってある堂宇。当時吊ってあったのは二代目梵鐘。1950(昭和25)年に再鋳したもの。私が中学校2年の秋10月のこと。それより2年ほど前、ご門徒の有志の方から「了願寺も大鐘(おおがね)(梵鐘)を作らなくちゃ」との提案がありました。

了願寺は、第15代住職が1940(昭和15)年に39歳で早世し無住状態。法規上、住職代務者(院代)を置かなければなりません。代務者は、住職資格を有する方でなければなりません。ご自坊との兼務のケースが多く、ご自坊の法務があるなか、日常の実務もお願いすることは困難。したがって、当山では(ぼう)(もり)である母が日常の法務に携わっていました。私も小学校高学年から、門徒さんのお宅へお参りに出かけました。ある講組で、報恩講(ほうおんこう)をお勤めした後の懇親の席上で前述の提案がありました。その情景が今でも脳裏に浮かんできます。

この声を受けて、総代・世話人が集まって寄り寄り相談。「寄付を集めるには、講組毎に目標(割当)額を決めた方がいい」とか、「京都の高橋梵鐘に作って貰おうか」とかいう話が漏れ聞こえてきた覚え。以後梵鐘再鋳募(さいちゅうぼ)(ざい)計画も順調に進み、記録に依りますと寄付金合計は、313,955円。1949(昭和24)年には役員が京都に赴き高橋梵鐘に鋳造を発注したと思われます。事実、梵鐘の〝池の間〟には「京都寺町高橋鐘聲堂謹鑄」と鋳造元の正式名称の浮き彫りがあります。そして1950(昭和25)年10(かね)供養(くよう)法要が営まれ、梵鐘再鋳事業は(えん)(じょう)。因みに梵鐘の外径は80㌢、重量は160貫(600㎏)。

 それはそうと、初代の釣り鐘はどこへ行ったの?とのお尋ねもおありかと。そう、初代の釣り鐘は、大東亜戦争のために国へ供出したのです。戦況が悪化するとともに、武器生産に必要な物資が不足し、これを補うために国は1943(昭和18)年8月、金属類回収令を制定。目的は、官民所有の金属類を国が回収するというもの。しかも、この金属類回収令は、天皇が発した法的効力のある勅令。当時の臣民(しんみん)たる国民は勅令に背くことはできず、やむを得ず金属類を国に供出しました。歴史的伝統のある了願寺も例外は許されませんでした。

 一枚のモノクロ写真が見つかりました。「昭和十八年二月十九日 梵鐘佛具献納報告法要 記念撮影」との裏書き。撮影場所は鐘楼西面。基壇の石垣を背に法要導師の院代・則武徹心師と役僧や筆頭総代が椅子に掛け、後列には総代・世話人が横一列の立ち姿。石垣上の鐘楼基壇には(うち)(しき)きを設えた卓上に真鍮(しんちゅう)製の()具足(ぐそく)左に花瓶・中央に香炉・右に台の佛具セット、その奥には供出する三つ具足が34セット置かれているのが分かります。更にその奥には、約1㍍方形の(ひし)(どう)(ろう)が一対、さらに小型の梵鐘「(かん)(しょう)」も。これら全て金属類、お国のために〝出征(しゅっせい)〟したのです。日本の鐘の9割以上が第二次大戦時に鋳潰されたとか。

 満6歳で目の当たりにしたその〝出征〟の光景が、今でもハッキリ思い出せます。先ずチェーンブロックで梵鐘をフックからはずして下ろし横倒しに。コロコロ転がして基壇と(ぬき)の間をすり抜けて基壇端に到り、110センチほどの高さから無造作に落とされました。鋳潰すとはいえ、先祖伝来の貴重な梵鐘がグヮンと鈍い音を立て地面に落ちたのを見て、子ども心ながら胸が痛んだことを思い出します。その梵鐘は再びコロコロと転がされて、山門前の石段から牛車に積み込まれ、寺を後に遠ざかって行きました。

 ところで、この梵鐘いつごろ鋳造されたのでしょう。前述の院代・則武徹心師が梵鐘の銘を拓本で採っておいてくださいました。物資不足の時代、タンポも無かったのでしょうか、薄葉紙に黒色クレヨン?を使って採取されたようです。従って、解読が困難で間違いがあるかも知れませんが、次のような四言詩で記銘されていました。

全無虚盈 我祖與精
法鐘新鑄 樓臺髙成
遠近洪潤 多響嘉名
了願香閣 法燈永明

続いて鋳造年月日の記銘     維時 明和四丁亥年三月 日 

     ※明和4年は西暦1767年。瀧澤馬琴や雷電爲衛門が生まれた年。松平定信は9才、十返舎一九は2才。

当時の住職については    第八世 現住 惠敬 代  との刻銘。 

合掌

2019/06/03前住職・本田眞哉・記

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