法 話

(220)大法要勤修

 

 
大府市S・E氏提供

  

 

御遠忌法要あれこれ(4)

始めに、前号の「法話」の中で、第二次大戦時に供出し鋳潰された当山の梵鐘の刻銘について些か補説したいと思います。銘を起案された当山第八代惠敬住職(1760年代)には失礼なことになるかと思いますが、私見を述べてみたいと思います。問題は、四言詩の第一句「全無虚盈」の中の虚盈。「虚盈」という熟語は無いようです。正しくは「盈虚」(えいきょ)。盈虚とは月が満ちたり欠けたりすること。そこから転じて、 栄えることと衰えること、ということも意味しているようです。いずれにしましても、「虚盈」は「盈虚」の誤刻であったように思われます。

話が鐘楼の修復工事から、1943(昭和18)年代の旧梵鐘の戦争受難そして1949(昭和24)年代の新梵鐘再鋳へ遠回りしてしまいましたが、今ひとつ寄り道をいたしたく…。それは車参道開設のこと。新梵鐘再鑄から18年を経た1967(昭和42)年、車社会に対応して車参道開設が求められるようになりました。前号所載のように、その計画に伴って防空壕を掘った鐘楼下の急斜面も岩積にすることとなり、鐘楼の石垣も積み直すとともに、沈下した柱基礎も修復することができました。

さて、車参道開設の計画ですが、策定に当たっては種々の検討課題が発生しました。先ずは道幅。山門正面石段を数段下りたところ正面と右方向に公道があります。幅員は2m~3m。数百年前からの田舎道。一方、左方向へは、幅1.8m程の公道でS字カーブの下り坂。ここが今回の計画のメイン。寺有地を無償提供して公道の幅員を45mに拡幅しようとの目論見。そのためには、先ず門前の石段と築地塀を1m余セット・バック。そして鐘楼下の雑草生い茂る急斜面を岩積にし、生み出された余剰地を公道の拡幅に充てようという計画。

計画の全工程の約半分は上記方式で可能ですが、問題は残りの半分。当該公道に接している宅地は当山の所有地。面積は226.01㎡。ただ問題はその土地が隣家に貸与中であること。返却について折衝しましたが、なかなかOKが戴けません。借り主と昵懇の間柄である当山総代にもお骨折り戴きました。その結果OKがでました。ただ、条件が一つ。それは、公道に提供する残余分の土地の買い取り要望。早速総代会を開き諮問。やむを得ないでしょう、との結論。相手方にもその旨伝え了承戴きました。

次なる作業は土地の測量・分筆。「屋敷壱区91番地の2」の土地、実測面積226.01㎡の内63.685㎡を「屋敷壱区91番地の3」に分筆して道路用地に。「屋敷壱区91番地の2」の残余分162.33㎡を売却することを総代会で承認。土地売却に当たっては、宗教法人法に則り宗務総長宛に「財産処分承認申請書」を添付書類とともに提出することが義務付けられています。同時に「財産処分に付き広告」を門前に掲示しなければなりません。広告内容は、処分(売却)する土地の所在地・地目・面積・㎡単価・総額・処分の理由・処分の年月日等。

宗務総長(本山)の承認が得られましたので、いよいよ着工の運びとなりました。工事を請け負って戴いたのはご門徒の「野村建材」。早速ブルドーザが運び込まれ作業開始。先ずは山門前の石段のセット・バック。石材をそのまま生かしての工事。新設より難しいとのことでしたが、何とかクリア。結果、門前の公道は1m余拡幅されました。次に石段の最下段を基準線として公道沿いの崖を切り崩して岩積に。S字カーブの公道起点の山門前の道路幅は4.5mとなり、以下工事が進むにつれ次第に拡幅されていきました。

しかし、一気に進めた場合危険が伴うため、慎重に工事は進められました。工事中、大きな蛇が住処を奪われ飛び出す場面も。若い屈強の作業員も現れた蛇を見てビックリ。ブルドーザから飛び降り走り出した姿が今でも脳裏に浮かびます。積み上げる岩の大きさ、形はさまざま。いわゆる自然岩で、大きさは正面奥行きとも50㎝ほどから、正面の長径が2m、奥行きが3m余の巨岩まで。形状は三角形・四辺形崩しから円形・楕円形崩しと各種各様。こうした岩をクレーンでつり上げ、石工の指示でランダムに積み上げていきます。

傾斜面を切り崩しつつ岩を積み上げる難工事、S字カーブの公道から境内地地面までの高さは、低いところで2m、高いところでは5mに達しました。総延長は35m、天守閣の整然とした石積みとは異なり、岩はそれぞれの個性を発揮しながら全体を統合し重厚感を醸し出しています。一方、傾斜面を岩組にしたため生まれた地面を公道に無償提供することによって、実質的な公道拡幅ができ、参詣者のみならず一般通行者にも便宜を供与することができました。岩積み工事には長期の日時を要しましたが、台風襲来や集中豪雨もなく工事は順調に推移し竣工を見ました。

やれやれこれで一段落と思いきや、否、参道工事は文字通りまだ〝道半ば〟。分筆した「91番地の3」の土地と公道を合体して車参道を造成する工事が残っているのです。この部分の幅員は公道1.8m+当山提供の用地2.7m=4.5m。旧国道までの延長は登記平面図によれば23.5m。高低差は実測2.2m。この数値をnet上の「勾配計算」に入力して計算した結果、勾配は9.362%、角度は5.348°との回答。然らば路面の長さは如何。同じく計算式に数値を入れたら、23.60との回答をいただきました。この三角関数、65年前の高校時代に比べて今は簡単に答えが出て来るのには驚き。

いよいよ新参道直線部分の造成。上記の数値から浮かぶイメージは、幅4.5m、長さ23.5mの巨大滑り台。この滑り台、もちろん素材は板ではなく盛り土。両側面にコンクリートの擁壁を造り、中へ岩積で出た残土を盛り込む工法。車の重圧に耐えられるよう鉄筋も沢山組み込み基礎もしっかり、擁壁も頑丈に施工して戴きました。その中へブルドーザで土砂を押しだし、ローラーで転圧地固め。何度も何度も地固めし、仕上げの舗装工事。

当時はアスファルト・プラントも数少なかったため、厚さ10㎝ほどのコンクリート舗装。山門前からS字カーブを経て旧国道まで延長50m弱の真新しい車参道が誕生しました。長年の夢が叶えられました。加えて、S字カーブと直線参道の接続部分の路肩に小さな余剰地が生まれました。普通車2台分の駐車スペースを確保することができました。これらの実績が起爆剤となって、参道開設の歩みはこの駐車スペースからさらに奥へ奥へと進み、本格的な駐車場築造事業に繋がって行ったのです。その経過は次号に記述することとしましょう。

合掌

2019/07/03前住職・本田眞哉・記

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