法 話
(221)「大法要勤修」
大府市S・E氏提供 |
御遠忌法要あれこれ(5)
「御遠忌法要あれこれ」のタイトルながら脱線に脱線を重ね、御遠忌記念事業から寺門興隆事業に迷い込んでしまいましたが、今ひとつ大きな事業を書き加えておきたいと思います。それは前号の延長線上の駐車場新設事業。結果的には駐車場新設工事となりましたが、事の発端は「墓地拡張並びに境界整備計画」。折から新規門徒数増に伴い墓地新設希望者が増加。しかし既設墓地は狭隘で増設の余地なし。一段低い境内地北端を開発し、併せて西側境界を整備しようという計画。
1971(昭和46)8月8日に総代・世話人会議を開いて計画を提案。全員異議なしで承認戴きました。しかし、この計画を遂行するには難題が二つ。第一の課題は、当該土地は数十年間に亘り近隣の農家二人に貸与しておりましたので、返還をお願いしなければならないこと。戦中・戦後の食糧難時代、この農地は食糧増産に貢献できたのではないでしょうか。貸与地の返還交渉は比較的順調に推移し、9月5日に土地返還に係る文書に調印が行われたとの記録が残っています。
地積は詳らかになっていませんが、私の記憶と地図面から推測すると、合計で500㎡ほど。当山からなにがしかの〝立ち退き料〟を払うことと、返還期限は翌1972(昭和47)3月31日とすることが謳われました。これにて一件落着、いよいよ一連の工事設計に取りかかることに。と、ここで第二の課題が浮かび上がってきました。それは工事用の道路の問題。もともと当山境内地の外縁、とりわけ西面と北面は狭隘な排水路を挟んで隣地と接しています。西側は一般民家、北側は「入海神社」。因みに、この入海神社は国の史跡「入海貝塚」で有名。7000年前、縄文早期の遺跡。
したがって北面・西面から当該工事地へは、重機はもちろん一般の車両も入ることは出来ません。となると、東面からのアプローチがただ一つ。これまた竹藪の斜面。施工をお願いするご門徒の工務店と種々工法を検討しましたが、竹藪を切り開きつつ擁壁を築造しながら、事故防止・安全を確保して牛歩で進む他なしということに。前号で記しました車参道開設工事で生まれたミニ駐車スペースを起点として、工事は出発・進行! 新設された車参道のお陰で、重機も楽々起工地点まで到達でき、エンジン音高らかに竹藪の掘削工事が始まりました。
起工地点から造成計画の墓地面までの標高差は数㍍。水平距離は20㍍ほどでしょうか、したがってかなり急勾配の上り坂。しかし、ブルドーザーのキャタピラーはしっかり地面をつかみ、前進後退を繰り返しながら作業は進行。千本近くあったと思われる竹藪の竹は一本残らず取り除かれスッキリ。が、一方何となく寂しい思いも。終戦間際に立て続けに当地を襲った激震・余震、その時母親や祖母が教えてくれた〝地震時の智慧〟を思い起こしたからです。その智慧とは如何。曰く、「地震の時には竹藪へ逃げ込め」。竹藪は根が網の目状に張っていて地割れを起こす心配がないから、とのこと。
そうそう今一つ思い起こすことは、我が竹藪の竹の有用性。太平洋戦争が激しくなった1944(昭和19)年のこと。戦況が悪化し敵機の襲来が頻繁になり、空襲を免れるため都市部の学童の集団疎開が始まりました。当山へは名古屋市南区の道徳国民学校の学童50名ほどが疎開し、起居を共にしていました。付き添いの先生は2人、賄いのおばさんも2人いらっしゃった記憶。〝入居〟は8月下旬だったと思いますが、受け入れ準備が大変でした。食器や調理器具は本部から支給されたものを使用しましたが、不足分は当山の厨房用品を提供した記憶。
そうしたなか、当山の竹藪から切り出した竹が大いに役立ちました。先ずは、本堂の浜縁に新設した転落防止の柵。高さ130㌢ほどの濡れ縁の端の柱と柱の間に竹を渡し、柵を設えました。竹と竹の上下の間隔は約30㌢で数段。物干しとしても活用。一方、台所でも竹が大活躍。現在のステンレス・キッチンとはかけ離れたサイズと〝質〟の流し台。長さは約4m、幅は80センチほど。竹を半分に割って外枠を作り、底の面は幅2センチほどに割った竹。これを足つきの木枠に乗せて完成。食器などを洗った時水はそのまま下に抜け落ち、排水トラップも排水ホースも不要。設置場所はもちろん屋外。杉皮葺きの粗末な差し掛け屋根の下。
当時の当地のインフラは実にお粗末。上水道はなく、手押しポンプで汲み上げる井戸水のみ。もちろん下水道もなし。都市ガスの配管もプロパンガスのボンベもありませんでした。テレビも、試験放送、いや実験放送?段階で、受信セットもなし。電話もなく、文化的恩恵は電気とラジオ放送のみ。名古屋市から疎開してきた学童たちは、生活環境の激変に驚きの念一入だったでしょう。加えて両親との離別生活、幼心が悲しい思いに襲われたとしても宜なるかな。「誰かご不浄へ行かない?」 暗い境内のトイレに友達を誘うこの声が聞こえてきたことも。今でも私の耳に甦ります。
話が集団疎開受け入れの懐古談に脱線、失礼しました。話を当初の「墓地拡張並びに境界整備計画」に戻しましょう。竹藪を切り開いて出来た坂道はようやく平場に到達。平場とはいえ数枚の畑の間には段差があり、これを文字どおり地均ししなければなりません。掘削したり埋め戻したり、動かす土はかなりの量。ブルドーザーにとっては得意技かも知れませんが、キャタピラーの音を響かせながら行ったり来たり、排土板を手足のように操って。地均し終わって平になった土地のレベルは境内地よりマイナス2m余。
この段差の斜面(土羽)、危険防止と土地の有効利用のため擁壁を築造する計画。頑丈な基礎の上に擁壁を立ち上げ、芝付けは上部三分の一とすることに。かつて、豪雨のために当山の崖が崩れて隣地の住宅の床下に流れ込み、必死に掻き出した記憶から強固な擁壁の築造をお願いしました。基礎にも壁面にも充分な鉄筋を組んでコンクリートを打ちました。型枠が外され姿を現した擁壁の下部には排水溝が不可欠。排水溝の工事、昔は陶器製の小さなものしかなかったかと思いますが、今やこクリート製のU字溝で比較的簡単に施工できます。
ここに墓地拡張工事、車進入路を含めて全て完工。お待ちかねの墓地新設希望の方もいらっしゃいますので、早速区画の設定をしなくっちゃ。最西(奥)部に当面必要な区画数を設定することに。造成された拡張墓地の全体面積は約500㎡。その内第一期の墓地区画設定区域は約100㎡。70区画が設定できました。待機希望のご門徒に抽選会で区画を決定。この抽選は区画を選ぶ抽選ではなく、区画を選ぶ順番を決める抽選。必ずしも希望の区画でなかったかも知れませんが、全員墓地永代利用権が得られて一件落着。
じゃ、余白の土地はどうなったかとのお尋ねの向きも…。そう、駐車場として活用することに。進入路は狭いものの、普通車なら大丈夫。20台ほどが駐車可能。この駐車場、現在は第一駐車場と呼んでいます。それ以後に第二駐車場、第三駐車場が開設されたので。因みに、第二駐車場は本堂西(裏)の墓地に隣接。2003(平成15)年10月に開設。第三駐車場2014(平成26)年3月にオープン。いずれも隣接地で、地主から当山へ売却の申出があり、それを受けて取得できたものです。お陰で、念願の駐車スペースの拡充ができました。第一駐車場も含めて現在合計50台の車が駐車可能となっています。
合掌
2019/08/03 前住職 本田眞哉 記