法 話

(222)大法要勤修

 

 
大府市S・E氏提供

 

御遠忌法要あれこれ(6)

 メインタイトル「大法要勤修」、サブタイトル「御遠忌法要あれこれ」のもと、何度も何度も話の道筋が〝脱線〟を繰り返し失礼しました。しかし、こうした記述も必然性に促されてのことなのです。自分史、否、自寺史(・・・)、いや〝爺爺史〟を記録に残すことは後世のために必要なことだと思います。事実、このテーマのもと一連の記述をするに当たり、記憶を呼び戻すとともに正確を期すために、古文書とまではいえませんが旧い書類を見つけ出して裏付けをとりました。

 購読している『中日新聞』の朝刊に「発言」欄があります。数人の読者からの「発言」が掲載されています。一週間の内、金曜日の「発言ヤング」を除くほぼ毎日、高齢者の戦争体験関連の投稿が採用されています。80歳代の方の体験談、時には90歳代の方も。現に本日(831日)の発言欄には、「空襲警報 必死で逃げた」と題する88歳主婦の方の発言が載っています。加えて、「防空壕掘り迎えた終戦」の見出しが付けられた81歳男性の投稿。83歳の私としても残された時間は少なく、戦時下及び戦後の「寺史」を記録として残しておかなければならないと思うや切。

 そんな視点から、本稿御遠忌シリーズで脱線を重ねた次第。脱線序でと云っては失礼ですが、今一つお許しを。それは出版のこと。記録を本にして残こそうという願い。小職このたび『(こん)』という法話集を出版しました。サブタイトルは「ホームページ法話コレクト」。コンテンツは、2010(平成22)年~2018(平成30)年のHPに掲載した「法話」100余編の中からセレクトした43編。法話とはいえ、寺史的要素も多分に含みます。蛇足ながら、『根』は拙著第4作。最初は『(なびら)』、第2作は『(うてな)』、第3作は『(ずい)』。

本論に戻しましょう。時計の針を50年ほど前に戻して終戦から20年余を経た1969(昭和44)年のこと。車社会に対応して車参道を開設することを企画しました。その中で、鐘楼直近の高さ5m余の急峻な崖の対応が問題点として浮かび上がりました。戦時中にこの崖に横穴式の防空壕を掘ったのです。一つは隣保班用、もう一つは本堂で寝泊まりして近くの軍需工場へ勤労奉仕にかり出された女学生用。いずれも終戦とともに埋め戻されたものの空洞があったりして脆弱。補強のためにコンクリート擁壁を立ち上げるか岩組にするか、議論の末岩組にすることに。

一方、この崖の地盤沈下に伴って、崖突端直近の鐘楼の石垣も沈下。所々口を開けていて、積み直しを迫られる状態。併せて沈下した柱基礎も修復することに。先ず、重量400500㎏の梵鐘を吊ったまま、鐘楼本体と併せて総重量は何十屯になりましょうか、ジャッキ・アップ。丸柱は葵型沓石の上に乗っていますが、その沓石はテーパーになった方形の礎石の上に置かれています。工事は持ち上げた柱・沓石と礎石の間に新しい礎石をもう一枚差し込むという工法。結果、沈下は10㌢余あった模様。一方、空積み石垣の積み直し工事も完了して、鐘楼に関しての〝戦後処理〟は終了。この工事、私にとって第一期修復工事とでもいえましょうか。

 しからば、第二期鐘楼修復工事は?とお尋ねの向きもおありかと。そう、それが今回の親鸞聖人七百五十回御遠忌法要の記念事業の一環として取り組んだ鐘楼復工事なのです。時恰も2018(平成30)年4月、鐘楼の周りに鉄パイプの足場が組まれ工事開始。立地が海岸段丘の南東突端で、気象条件は最悪。見渡す市街地の屋根は足下。水平目線はマンションの4階あたりでしょうか。台風時の烈風は眼下に広がる屋根の上を通り越して鐘楼へまともに吹き付けます。したがって、屋根はあっても無きに等しく、柱や梁は傷みが激しい。

先ずは老朽化した(ぬき)の取り替えと丸柱の部分補修。東南海地震、三河地震、13号台風、伊勢湾台風、第2室戸台風等々名だたる災害にも耐えて〝生き延びた〟この鐘楼、かなり傷んでいます。特に東面と南面。幅12㌢高さ20㌢長さ350㌢ほどの貫は風化し痩せ細っています。丸柱に差し込んだ(ほぞ)部分も指が入るほどに腐食。上下合計8丁ある貫の内4丁を入れ替え。また丸柱2本については、痛んだ部分を切り取って新材を継ぎ足すという、いわゆる〝掛け接ぎ〟の難工法。神谷棟梁は見事成功。本体を解体することなく、2か月ほどの工期で完工。

飜って、鐘楼の屋根の工事については、当初の計画では部分補修でよろしいということでしたが、精査の結果屋根の全面葺き替えが必要ということに。201810月総代会で協議の結果、補正予算を組んで対応することに。大がかりな仮設工事も必要ということで、早速着工。先ずは、屋根瓦を剥がし葺き土を下ろす作業。いずれも廃棄処分の対象。古瓦はもちろん葺き土の処分は時節柄大変なことですが、屋根葺き業者にお願いするほかありません。葺き替えに当たっては「引掛け桟瓦葺き工法」を採用することになり、葺き土は全く無用ということに。

引掛け桟瓦葺き工法は、工程が簡略になって省力化が可能。50数年前の本堂の屋根葺き替え時の記憶が甦ります。屋根から下ろした大量の葺き土を練り直さなければなりません。積み上げた土の表面に窪みを付け、水と刻んだ藁を入れて練ります。焼き物造りでも土練りは必須ですが、葺き土の練りはスケールが違います。鍬や鋤で練るのですが、これが重労働。そこで、作業奉仕の農家の方が耕耘機を持ち込んで見事な土練り作業を展開。耕耘機をロープで杭に固定して、エンジンを噴かしローターを回転させて土を練るという名案。

そんなことを思い出しながら今回の葺き替え工事を見ていると、この工法は効率的と申しましょうか、合理的と云いましょうか、無駄がありません。修理した野地板の上にルーフィングと呼ばれる下葺き材・防水シートを敷きます。その上に木の横桟を打ち付け、その桟木に一枚々々瓦の裏のツメを掛け釘で固定します。こうした工法で葺かれた瓦屋根は、地震の時などに大量の瓦が雪崩落ちるといった危険性はありません。土葺き屋根に比べて引掛け桟瓦葺き屋根は、その安全性において格段の差があるとのこと。

瓦の雪崩落ちといえば思い出されるのが三河地震。1946(昭和21)年113日未明、当地直近の三河湾で発生。マグにチュ-ド6.8(震度7)の激震。エア・ハンマーで突き上げるような衝撃で飛び起き、玄関から外へ一目散。極寒の寒さに気づき防寒衣を部屋にとって返すと、庭に近所の人々が集まってガヤガヤ。恐怖に震えながらそれぞれ体験談。前年の127日に当地を襲った東南海地震からわずか1か月余。太平洋戦争の戦況が悪化するなか、追い打ちを掛けるような連続地震に皆青ざめていました。

夜も白々と明け、お互いの顔もハッキリ分かるようになってきました。ふと、本堂の大屋根を見上げると、エッ?何だこれ! 大屋根の中腹あたりから、瓦が雪崩現象を呈しています。雪崩落ちた部分の広さは50㎡ほどありましょうか、瓦は雪崩を打つように軒先あたりまで崩れ落ちていました。中には軒から地面に落ちて割れた瓦も。上層部は赤土のむき出し。当時は青シートもなくそのまでは雨漏りが心配。戦時中のこととて人材不足でしたが、ご門徒の皆さんの奉仕作業で応急修理ができました。

話を鐘楼屋根の葺き替えに戻しまして、瓦を剥がし葺き土を下ろした後、下地の補修とシート張りに随分時間を要しました。11月末までに横桟の打ち付け工事もほぼ完了。12月に入り新しい瓦も運び込まれ、いよいよ瓦葺き工事を開始。旧屋根は平瓦葺きでしたが、今回は本瓦葺きに改めたので重量感も増すことでしょう。お天気にも恵まれ工事は順調に推移。鬼瓦もどっしりと設えられ、棟の瓦も高く積まれ威風堂々。鐘楼の屋根葺き替え工事は12月末をもって(えん)(じょう)。翌年331日の御遠忌法要を待つばかり。

合掌

2019/09/03   前住職 本田眞哉 記

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