法 話

(223)伊勢湾台風

 

 
大府市S・E氏提供

 

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思い出すのは今から60年前、1959(昭和34)年の926日。大学を卒業して名古屋市内の高校に勤め始めて数ヶ月、ほやほやな新任教諭。台風が近づいているとのことで、翌27日(日)に開催する体育祭の準備作業を早めに切り上げ、生徒会役員ともども下校。強風の中平常通り運行の市バスで国鉄名古屋駅へ。確か掛川行きだったと思いますが、東海道本線の普通列車に乗車。大府駅で武豊線に乗り換え。このころから風が急激に強くなった記憶。武豊線は2輌編成のディーゼルカー。帰宅を急ぐ乗客で車内は押し合いへし合い超満員。

緒川駅から徒歩78分、自坊に着くと猛烈な風。海岸段丘上に立地する我が家は強風をまともに受けます。既に停電。鞄を置くのももどかしく、乾電池を求めて近くの電器店へ。上空の電線を切る風の音は唸りを上げていましたが、電器店の中は比較的静か。帰宅後直ちに情報収集作戦。当時我が家にはテレビも電話もありませんでした。頼りになるのはST管3式の〝並三ラジオ〟 しかし、停電では情報収集どころか何役にも立ちません。しからば、と引っ張り出したのが学生時代に組み立てたMT管ラジオ。

 かつてこの自作ラジオで何回も放送を受信したことがありますが、難点が一つ。それは高圧のB電源の確保。低圧のA電源(ヒーター電源)の供給は一般の乾電池や低電圧交流等でOK。ところが、B電源の電圧は直流67.5ボルト。積層の乾電池はあるものの、高価である上に容量が少なく長時間の利用に耐えられません。そこでひと工夫。自転車の発電ランプの活用。発電機で発生した電気を電源トランスの低圧側コイルに導くと、高圧側のコイルに高圧電流が発生します。この電流を整流器で直流に変換してB電源にしようという作戦。

 このラジオ、サイクリングの時にも活躍しました。友人と二人で出かけました。コースは知多半島一周。東浦町の自坊を出て南へ。半島の東側、衣浦湾沿いを一路南下。最初に乗り入れたところは半田市。半田市は、昭和12年に発足しているので、当時知多半島唯一の「市」。因みに、現在の知多半島には55町があります。他の市は、常滑市1954(昭和29)年・東海市1969(昭和44)年・大府市1970(昭和45)年・知多市1970(昭和45)年。4市はそれぞれ発足。5町は、東浦・阿久比・武豊・美浜・南知多の5町。

 1870年代(明治初年時点)には知多郡内には146の村があったとの記録があります。その後村々の合併統合が進み、村の数は漸減していきました。1877(明治10)には統合が行われ116村に。当地関連では、猪伏村と村木村が合併して森岡村に。藤江村と有脇村が合併して広田村に。翌1878(明治11)年、郡区町村編成法の施行に伴い行政区画としての「知多郡」が発足。郡役所が半田村に置かれました。併せて数多くの統合が実施され、村数は49に激減。

ところが、1881(明治14)年から1884(明治17)年にかけて逆に村の分割が行われています。急激に進んだ合併に対する反動か、合併統合により発生した歪みの解消のためか、理解に苦しむところ。1878(明治11)年に統合して生まれた当地の生浜村が分割されて生路村と石浜村に逆戻り。同じく新しく生まれた広田村は分割されて、元の藤江村と有脇村にリターン。()てて加えて奇妙なことに、5年前に分割した石浜村と生路村が1887(明治20)年再び合併して生浜村になっているのです。いずれにしてもこの年の村数は増加して88村。

そのわずか2年後、1889(明治22)年101日に町村制が施行されました。これによって、大規模な村の合併が進む一方、一部町ヘの昇格も行われました。半田町と亀崎町(現半田市)、横須賀町(現東海市)、大野町(現常滑市)が誕生。村の方も再々編され、この年462村となったとのこと。1891(明治24)年には武豊町が町制施行。更に1893(明治26)には内海町が、翌1894(明治27)には師崎町が誕生。1903(明治36)年には河和町と岡田町が、1905(明治38)年には豊浜町がそれぞれ町政を施行。かくして知多半島は1451村の行政区画で構成されることに。

その後も町村合併の流れは止まらず、1906(明治39)年には大規模な新設合併が実施されました。我が「東浦村」もこの時誕生。藤江・生路・石浜・緒川・森岡の5ヶ村が合併して東浦村が新設されたのです。郡内は1414村となり、村数は激減。こうした町村合併の流れは、大正時代を経て昭和時代へと受け継がれました。明治生まれの東浦村は、1948(昭和23)年に町制を施行して「東浦町」に生まれ変わりました。昨年は町制施行70周年、町は各種記念事業・記念行事を企画実施。

私にとって忘れられないのが町制施行10周年。記念事業の一環として、町章制定の企画が発表され、そのデザインを町民から募ることに。当時私は大学4年生。といっても大学はデザイン系でも美術系でもなく仏教系。ただ、高校時代からデザインには興味を持っていました。以前このHPでも記しましたが、私の応募作品が入選し採用されました。他に6人が応募。入選作品は東浦の〝ひ〟の字を図案化したもので、基本は丸と三角の組み合わせ。三角は東浦の躍進を、丸は円満・和合の精神を表現。中央白抜きの6は6地区の協力を期待したもの。

以後、このロゴは町の『広報ひがしうら』はもちろん、公式ホームページのトップにも掲載されています。また、関係団体の会報や印刷物にもプリントされています。一方、公共の建造物の外壁や館内にも設えられました。加えて、国道や県道の他市町との境界線に建つ道路標識や下水道のマンホールの蓋、上水道の仕切弁や消火栓の蓋にも。かつて、町から市へ昇格しようという気運が盛り上がりましたが、手続き上に瑕疵(かし)がありダメに。町がそのまま市になった場合、町章はそのまま市章になりましょうが、合併のケースでは? できればそのまま引き継ぎ伝えてほしいと願うや切。

合掌

 

2019/10/03   前住職 本田眞哉 記

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