法 話

(224)サイクリング

 

 
大府市S・E氏提供

 

話がサイクリングから知多半島の市町村の〝合従(がっしょう)連衡(れんこう)〟の話に脱線してしまいましたが。サイクリングの話題に戻しましょう。時は昭和30年代初め。道路状況は現在に比べれば〝極悪路〟。一応「県道」にはなっているものの、舗装されているのは全コースの20%ほどでしょうか。あとは全て砂利道。自動車の通行量は現在の1030分の1かと思われますが、砂利が路肩に押し寄せられ自転車にとっては危険千万。砂利にハンドルを取られ転倒の危険にさらされたこと幾度か。道路行政の予算が少ないのか、人手不足なのでしょうか。

二台連なった自転車は、東浦町の南端から半田市の有脇地区へ乗り入れます。同宗派の蓮念寺さんの前を通過。この蓮念寺さん、当山とは深いご縁のお寺。小職16世の先代(父)は39歳で早世しましたので、住職不在となり代務者を置かなければなりません。そこで蓮念寺さんの先代住職にお願いして代務者に就いて戴きました。以後、私が住職に就任するまで18年間にわたりお努め戴きました。宗務当局へ書類提出が必要なときなど、押印を戴きに度々訪れたことを思い出しつつ、ペダルを踏んで亀崎地区へ。

亀崎地区は海岸線を走ります。海岸線といっても大海ではなく衣浦湾の湾岸。しかも波打ち際。潮干祭りで有名な神前(かみさき)神社の前を通過。因みに、潮干まつりとは? 毎年5月に催される春祭り。山車5輌がからくり人形を演じつつ町内を曳き回し、フィナーレは山車の海浜への引き下ろし。神前神社前の坂を波打ち際まで一気に引き下ろし、方向転換して水しぶきを上げながら海へと突進。端で見ている目にはヒヤヒヤ、ハラハラ。先日、岸和田のだんじり祭りで山車が電柱に激突し、4人が怪我をしたとの報道がありましたが、その時も潮干祭りの山車の引き下ろし場面の記憶が頭をよぎりました。

二人の自転車は予定のコースを順調に進み、乙川から成岩へ。この成岩には同派の大坊無量寿寺さんの甍がそびえていたことを思い出します。本山並みの築地塀と本堂の大屋根が目を惹きます。古い街並みの成岩から武豊・富貴・布土へ。このあたりからは海沿いを走ることになり、家もまばら。しばらくすると河和口。河和口といえば思い出すのが海水浴。終戦直後、いわゆる海水浴場といったものは整備されておらず、海辺の民家で着替えをして海へ。そこのご主人は確か学校の先生をしていらっしゃるとかでしたが、親切に水泳の指導もして戴いたことを思い出しました。

時志観音の下を通り、河和町の街並みを抜け豊浜町へ。左手に見る海は、当初の入り江や衣浦湾とは段違いの広々とした大洋の感じ。このあたりでは海水の塩分濃度もかなり高いのでしょう。太平洋戦争時には、日常生活物資が不足してきたため配給制を導入され、米は1941(昭和16)年から成人男子1123(330g)の配。副食、酒、マッチ、煙草、木炭、衣料などの生活必需品も配給制に。食塩も家庭用塩購入券で11か月200g。近隣のある人は一升瓶を持って当地を訪れ、海水を詰めて持ち帰って食塩代用にしたとか。

そんな話を思い出し、友人に話しながらペダルを踏み続けました。自転車は豊浜地内を通り過ぎ師崎町へ。師崎は知多半島の最南端。就中羽豆岬はその最先端。前を見ても右を見ても左を見ても海原。打ち寄せる波も高からず低からず、実に爽快。弁当を持って磯の岩の上へ。広々とした海を眺めながらの昼食は最高。〝余は満足じゃ〟。自転車に戻りラジオ放送を聴取。自転車のスタンドを立て発電ランプをセットし徐にペダルを踏むと、NHKラジオ第一放送「ひるのいこい」の音声が流れてきました。手作りのMT管三球ラジオで受信することができ、文字どおり〝いこい〟のひと時。

サイクリングコースはここで折り返し、知多半島の西海岸ルートを西進・北上することに。取り敢えずは西進。師崎町は小さく、面積は東浦町の三分の一ほどでしょうか。1㎞ほど走ると再び豊浜町に入ります。豊浜町は町域が半島を横断していて東西両海岸に面しているからです。しばらく行くと、海岸線が500mほど大きく陸地に食い込んでいます。須佐湾です。大きな天然の漁港といったらよろしいか。港内には沢山の漁船がひしめき合っていました。須佐港を後にして西海岸沿いの道を1㎞ほど進むと次は内海町。

内海といえば海水浴場で有名。といってもそれは、1980(昭和55)年代に名鉄知多新線が開通してからの話。それまでは昨今のような海浜の賑わいはありませんでした。そうそう、この内海には我が宗派の唯信寺さんが地道な教化活動を続けていらっしゃいます。印象に残っているのは前々住職。折しも、宗門改革の一環として同朋会運動が発足。知多地区はその先陣を切って指定を受け、特別伝道などの事業が展開されました。そうしたなか、前々住職は鋭い感覚のもと熱烈に運動推進に尽力戴きました。今思い出しても頭が下がる思い。

内海町に別れを告げ、次なる町野間を目ざします。私の記憶が間違っていなければ、この道中は海辺でなくかなり高所の坂道を、力一杯ペダルを踏んで登った覚え。小野浦海水浴場を左手に見てしばらく進むと、前方に白亜の灯台。野間灯台です。野間灯台は1921(大正10)年に設置され、高さ18mで愛知県最古の灯台とのこと。野間には古刹野間大坊(大御堂寺)があります。1159(平治元)年平治の乱で平氏に敗れて東海道を下ってきた源義朝は、長田忠致の許に身を寄せました。しかし、忠致・景致父子は、平家からの恩賞金目当てに湯殿で入浴中の義朝を騙し討ちしたといわれます。

 時間も押していたため義朝の墓参りはパスして次なる小鈴谷へ。再び道は海岸線に沿って。小鈴谷を通り抜け常滑市に到達。常滑市は土管の町、常滑焼の町。窯業が伝統産業で、日本六古窯の一つといわれています。自転車をこぎながら眼にする光景は、あちこちの窯の煙突からモクモクとはき出される煙。間もなく市場町に到着。市場町から半田市の成岩町に至る街道沿いに当派の満覺寺さんの山門があります。境内には七堂伽藍が甍を並べ、法灯伝統の証が顕現されています。

満覺寺さんの前住職は愛知学芸大学(現愛知教育大学)卒で、小職の3年先輩。卒業後は教職に就かれたが、住職就任後は教義・教化の研究・研修に勤しまれ、知多地区をはじめ、教区・教団の教学振興に尽力されました。持ち前の体力と頭脳でエネルギッシュに活躍され、数々の業績を残されました。そうした満覺寺さんを後にして、自転車のハンドルを北に向けてペダルに力を込めました。さすがここまで来るとサドルの上のお尻が擦れて痛みが増してきました。スポーツで鍛えた体の友人もいささか疲れた様子。

でも、前進あるのみ。名鉄常滑線の終点常滑駅を横に見て北へ北へ。多屋・榎戸を過ぎて蒲池で常滑線の踏切で道は線路の西側へ切り替わります。しばらく進むと大野。大野はかつてかなり栄えた町だったようです。線路沿いに真宗大谷派(東本願寺)の古刹光明寺さんがありました。1969(昭和44)年、同朋会運動を推進する改革派と法主を擁護する保守派との対立から「お東紛争」が惹起。以後30年間紛争が続いたためお東三十年紛争ともいわれています。その折、光明寺さんは保守派の立場に立ち、真宗大谷派教団から離脱。

大野から北へ約2㎞の地が新舞子。今は人口島ができ昔の面影もありませんが、元海水浴場。子どもの頃海水浴に行った覚えがあります。飛行場もありました。単発の水上飛行機が離着陸(離着水?)を繰り返していたのを覚えています。常滑線の東へ変わった道を自転車は北上。日長・古見を抜けて横須賀へ至ります。当時横須賀はかなり賑やかな町であった記憶。ペダルを踏む脚は疲労が酷くなってきました。もちろんお尻も…。ここでコースは直角に右へグイッと曲がり東方向へ。半島横断のファイナル・コース。大府を経て自宅まで約10㎞。頑張って、頑張って…知多半島一周サイクリングThe end

合掌

2019/11/03  前住職 本田眞哉 記

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