法 話

(225)伊勢湾台風

 

 
大府市S・E氏提供

 

本稿前々回の「伊勢湾台風」から脱線に脱線を重ね、話が知多半島一周サイクリングへと迷走してしまいました。なお、この時の同道の高校・大学の同級生は、数年前亡くなられたとの報に接しました。痛恨の極み。彼はスポーツマンで、とりわけテニスでは素晴らしいプレーをしていました。大学卒業後は名古屋市の教員として学校教育に力を尽くされました。そうしたことも思い出しながら綴ったサイクリング記でしたがここで締め括り、伊勢湾台風記に復帰することとします。先ずは手作りのMT3管ラジオでの受信場面から。

 庫裡の土間に自転車のスタンドを立てペダルを踏みます。車輪の回転が上がると同時に、タイヤに当てた発電機の回転も上昇。すると、ハンドルに取り付けた3インチのスピーカーから受信したラジオ放送が流れ出しました。台風の中心示度、現在位置、上陸予想、進行方向、進行速度、予想される風速等々の情報をアナウンスしていました。また、「大型の強い台風」なので十分注意するよう呼びかけていました。だんだん風が強くなり、午後6時半ごろには屋根瓦がカラカラと音を立てて飛び始め、次第にその頻度が増すとともに庫裡がミシミシと揺れ出しました。

 一方、本堂はどんな状況かと恐る恐る点検に行きました。グォーッという風の音とバタバタバタと唐戸の鳴る音の中、ギーッギーッと大揺れに揺れていました。床高が高いこともあって、床が大きく揺れまともに歩けません。屋根の上の方からはカラカラという異音。いずれもかつて経験したことのない状況。危険を感じて退散することに。座敷の廊下にさしかかると、雨戸の閉まらなかった部分のガラス戸が風圧で弓なり状態。畳で補強しようとしたところ、床下からの風圧で畳が浮き上がっていました。畳はダメ。タンスの引き出しを突っ支い棒代わりに。

 そうした中、自作ラジオで得た台風の現在位置・進行方向・速度等の情報をメモ。ローソクの光を頼りにメモした情報を日本地図に落とし、台風の自己流進路図を作成。すると、当地は台風中心の進行方向右側に入る可能性大となりました。こりゃ大変だ。周知のように台風は左巻き、中心の右側は台風本来の風速に進行速度が加算され猛烈な暴風になるわけです。例えば、台風の進行速度が時速40㎞とすると、これを秒速に換算すると約11㍍。したがって、本来の風速が30㍍の場合、実際の風速は約40㍍になる勘定。逆に台風の左側は両者が相殺されて20㍍内外ということになろうかと。

 被災学生を守る会発行の『伊勢湾台風』によりますと、台風15号は92212時に誕生。その後急速に発達し2315時には中心気圧は894ミリバール、最大風速は75㍍、中心から400㎞以内は25㍍以上の暴風圏を持つ超大型台風に。誕生からわずか4日後に日本を襲ったわけです。普通、台風が日本にやってくるのは誕生から1週間から10日後。これに比して台風15号は足が速く育ち方も大きかったといえましょう。ということは、勢力の衰えるいとまもなく殆ど最盛期のエネルギーを保持したまま、まともに日本を襲ったのです。

 暴風雨のピークは、風向が東から南へ変わった確か午後9時半過ぎだったと思います。台風通過後は西からの強風、いわゆる吹き返しの風が吹き荒れました。午後11時ごろ本堂を点検に。懐中電灯の薄明かりの中、眼に入ったのは垂れ下がった大間の格天井。今にも落下しそう。よく耐えたもの。内陣はと見れば、畳1畳大の法名軸が捻れて千切れそう。厚さ20㎝の畳が数㍍吹き飛ばされ裏返しに。どこから吹き込んだのかと辿ると、南面の縦3×2×厚さ20㎝超の壁がすっぽり抜けて星空が見えていました。風は北側の4本ガラス戸を吹き飛ばして抜けていったのでしょう。

 外へ出てみると、これ如何に。樹齢百年超の大銀杏が倒れています。近くの墓石をなぎ倒し本堂の庇を傷付けています。根っこは近接するトイレと土塀を公道上に跳ね上げ、公道は通行困難な状態。一方、山門と鐘楼はと目を凝らして見れば、瓦はかなりの枚数が吹き飛ばされている様子。でも倒壊は免れました。海抜10㍍余の海岸段丘突端に建つ鐘楼、よくも烈風に耐えたものです。鐘楼から東に目をやると、数百㍍先の県道に動かない車列のヘッドライト。ン?

 翌27日(日)、朝から台風の後片付けに追われました。先ずは大銀杏の根っこに跳ね上げられた公道上の瓦礫の撤去。少しでも通行できるようにと作業を進めていると、乳母車を押したご婦人がやってきました。見れば乳母車には布団らしきものが。聞けば住宅が高潮に襲われ水浸しになった布団を親戚の家に運んでいるとのこと。エエッ高潮? ビックリ。なるほど、動かない車列のヘッドライトの謎が解けました。県道の低い部分が浸水し通行止めになっていたのです。そういえば、日曜日のこととて法事の予約があり自転車で出かけた折、その県道の交差点の真ん中に流れてきた野瓶が転がっていましたっけ。

 因みに、当山山門前の公道は海抜9㍍。そこから類推すると車参道に接する旧県道は海抜56㍍でしょうか。地盤隆起以前はこの旧県道あたりが波打ち際だったのでしょう。当山境内地に隣接する入海神社の境内には国指定の史跡「入海貝塚」があります。約7,000年前縄文早期の貝塚。出土した縄文土器は口縁下に数条の突帯をめぐらし、突帯にヘラなどで刻みを入れているのが特徴で「入海式土器」と呼ばれています。貝塚の存在はこのあたりが海岸線であったことの証左になりましょう。

 地盤が隆起した現在といえども、緒川地区の旧県道以東は海抜値一桁の地域。地震・台風などで津波・高潮で浸水する虞大といえましょう。最近各所の路面に海抜値が標示されるようになりました。例えば、JR緒川駅の西口あたりでは海抜は2㍍、イオンモール東浦の敷地南西角では海抜1㍍。「伊勢湾台風浸水位」という木製の標示が緒川地区各所で見受けられました。最高3㍍から数十センチまで。ところが家の建て替え等のためか、最近殆ど見かけなくなりました。後生への教訓として記憶にとどめておきたいと思うや切であります。

 合掌

2019/12/03  前住職 本田眞哉 記

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