法 話
(231)「蓮如上人(3)」
![]() 大府市S・E氏提供 |
聖道門権勢への忖度
「蓮如上人御若年ノ砌」の〝家庭生活〟の実態から「ユネスコ」へ、さらに宗祖親鸞聖人の「肉食妻帯」と「非僧非俗」へと変転してしまいましたが、話を蓮如上人若かりし時代に回帰しましょう。親鸞聖人の「非僧非俗」の教えでは、僧の起居する「寺」は当然のことながらあり得ませんでした。しかし、「本願寺」の寺号が1300年代前半に文献上に見られるところから、第三代覚如上人《1270(文永7)年~1351(観応2)年》が本願寺を創立したものと思われます。親鸞聖人自身は開宗の意思もなく、在家教団を寺院化する考えもなかったことでしょう。
かくして覚如上人は、教団の寺院化・権威化による新しい教団作りに成功したものの、教団活動は上人の思い通りに進まなかった模様。却って他宗・他派の反発を招く状況に。特に、同じく親鸞聖人を宗祖と仰ぐ仏光寺派はますます民衆の中に入り込み、独自の教化を展開し教線を拡大していきました。本願寺教団はといえば、覚如上人に続く綽如上人・巧如上人・存如上人合わせて四代に亘り、財政不如意で衰微しておりました。このあたりのことは前回「御若年ノ砌」で記した通りですが、今一つ気がかりなのはいわゆる旧仏教「山門」との関わり。
「山門」とは、寺々の境内入り口に建つ山門ではなく、天台宗山門派の総本山・比叡山延暦寺のこと。流祖は円仁。これに対して「寺門」は同じく天台宗ですが、山門の円仁派と対立して10世紀末に分立した寺門派の総本山・長等山園城寺。滋賀県大津市にあります。派祖は円珍。現在は天台寺門宗というとのこと。両派は天台宗の双璧ですが、就中比叡山延暦寺は今さらいうまでもなく、我が宗祖親鸞聖人にとっては強縁の古刹。親鸞聖人は1173(承安3)年4月1日、藤原氏の流れをくむ日野有範氏の嫡男としてご誕生。
ご誕生の地は現在の京都市南部、宇治にほど近い日野の里。父は身分の低い公家、母は源氏の流れをくむ吉光女であると伝えられていますが、確かなことは分かっていません。この地には真言宗醍醐派の法界寺があります。822(弘仁13)年日野資業氏が創建した日野家の氏寺。境内に建つ阿弥陀堂は平安時代に建てられたもので国宝。堂内に安置されている「丈六阿弥陀仏座像」も国宝。華やかな天蓋と透かし彫りの光背が美しい。幼いころの親鸞聖人が念持仏として仰がれたと伝えられています。
聖人ご誕生のころの時代背景は、保元・平治の乱を経て都では平氏一門が栄華を極めていました。しかし驕る平家は久しからず〟源氏を中心に反平氏の動きが活発化し、源平の争乱の果て平氏の権勢はわずか12年で衰退。代わって源氏一門が武家政治への道を開き始めました。しかし、相次ぐ天災のため深刻な飢饉が起こり、多くの人々が飢え死にしていく状況でした。一方、宗教界では比叡山・奈良の僧兵たちの争いのため、東大寺・興福寺をはじめ諸大寺が焼き払われるという事件が多発。
そうした状況下、親鸞聖人自身も8歳で母親を亡くしたりして将来に不安を抱き、それがきっかけとなって9歳の春のころ、天台宗青蓮院慈円和尚のもとで出家得度。僧名を「範宴」と名のられました。この時、「明日ありと 思う心のあだざくら 夜半にあらしの ふかぬものかは」と歌を詠まれ、剃髪を受けられました。聖人は逆縁のもと出家の道を歩み出されたのです。苦しみ、悲しみにうちひしがれながらも、それを訴える言葉も術もない人々の姿を目の当たりにして、聖人にとっては出家の道は人間として生きる意味を尋ねていく唯一の道だったのです。
かくして、親鸞聖人は比叡山延暦寺において修行生活を開始。以後29歳までの20年間、人生に於いて最も多感な少・青年時代を、比叡の山に生きられたのです。伝教大師最澄によって開かれた比叡山延暦寺は、当時大乗菩薩道の根本道場として、その使命を自負し権勢を誇っていました。しかし、聖人が学ばれたころには、現世利益のための術や、現実生活とは無関係な学問の場になり果てていました。比叡山に加持・祈祷を求めることができたのは広大な荘園を支配する領主など、社会の上層部。そのため、寺と貴族社会の結びつきはますます強固に。
比叡山の常行三昧堂で堂僧をつとめていた聖人は、権力と結びつくことによって次第に世俗にまみれていく山内で、身分的な対立が生み出され、争いが絶えない状況が展開されるのを目の当たりに。もちろん、ひたすら修学に励む堂僧もいなかったわけではありませんが、ご自身は仏の示されるようなさとりを開くことは、もはやこの世界ではかなわないのではないかと、修学者としての問いをますます深めながら、もがき、悩み、苦しむ日々を過ごされました。比叡山に上がって20年、懸命に修学を続けられた聖人は、1201(建仁元)年29歳のとき比叡山を降り六角堂に百日の参籠することを決意されたのです。
こうした親鸞聖人の苦悩から時は流れて200余年。蓮如上人若かりし頃、本願寺は親鸞聖人が後にした比叡山延暦寺と厳しい対応を求められることに。寺運が衰微した本願寺は、いわばかつて宗祖が対決した天台・聖道門の権勢への忖度を余儀なくされたといえましょうか。『実悟旧記』には、
善如上人綽如上人両御代ノ事、前住上人仰セラレ候。両御代ハ、威儀ヲ本ニ御沙汰候シ由、仰セラレ候。然ラバ今ニ御影ニ御入候由仰セラレ候。黄袈裟黄衣ニテ候。然ラバ前々住上人御時、アマタ御流ニソムキ候本尊以下、御風呂ノタビゴトニヤカセラレ候。
との記述。
三代覚如上人のあと、本来黒衣・墨袈裟であるべき法衣が天台の黄袈裟黄衣になっているのを匡さなければ、ということでしょう。当時の本願寺が山門に準ずる聖道門的威儀を用いていたことを示し、山門・比叡山に対する阿りがあったのではないでしょうか。さらに、聖人の教えに背く本尊なども風呂の焚き物として焼いたとのこと。これまた宗祖の教えに背く本尊なども焼却し、御流に回帰する動きを記したものと思われます。
因みに、「威儀」についていささか…。辞典などによりますと威儀とは | |
①動作。振る舞い。 | |
②戒律の異名。 | |
③の袈裟の肩の部分にある平絎の紐。 |
ここで取り上げるのは③の「袈裟の部分にある平絎の紐」。文字で説明するのは難儀ですが、我が宗門で依用する「五条袈裟」の例でトライしてみましょう。袈裟本体の大きさは幅60㎝×長さ150㎝。先ず長辺を二つ折りにして両端を合わせ、上端隅につけられた威儀(小威儀:幅20㎜)を左腕のあたりで結ぶ。この結び目を左手で保持しながら輪っかになった本体を、右手と頭を貫くようにかぶって纏う。上端が脇の下になる高さで保持。左肩から幅広の威儀(大威儀:幅55㎜)を前に垂らし、本体内部の輪に通し独特の方法で結んで完了。
以上のように威儀は袈裟の一部分を指しますが、転じて法衣装束、威厳ある姿・形・動作等を表す語彙にもなったと思われます。「威儀を正す」のフレーズもその一つでしょう。西派の『法要集』によれば、「威儀とは、威厳ある儀容のことで、所作進退すべて法に適い、端正に行儀を執行することである」とのこと。蓮如上人御若年の砌の本願寺の有り様から「威儀」の詮索に深入りしてしまいましたが、話を再び蓮如上人御若年の頃に戻しましょう。聖道門追従のためか依然と続く本願寺の沈滞状況の中、蓮如上人は本願寺再興の立志を迎えられるのです。以下は次回へ。
合掌
2020/06/03 前住職 本田眞哉 記