法 話

(232)「蓮如上人(4)

 


 
大府市S・E氏提供

 

真宗再興の志
 
 

 『蓮如上人遺徳記』には

先師(蓮如上人)十五歳ヨリハジメテ真宗興行ノ志シ(しきり)ニシテ、一宗ノ中絶セルヲ前代仰立ラレザル事ヲ遺恨ニ思召、如何シテカ、ワレ一代ニヲイテ聖人ノ一流ヲ諸方ニ(あらわ)サント、常ニ念願シタマヒ、終ニ再興シ給ヘリ

との記述があります。蓮如上人の父存如(ぞんにょ)上人、(さかのぼ)って祖父・(ぎょう)(にょ)上人、曾祖父・綽如(しゃくにょ)上人の三代に亘り本願寺は財政不如意で衰微しておりました。そうした状況を弱冠十五歳ながら蓮如上人は感得し、親鸞聖人一流の教え・真宗を再興しなければならない、と立志されたのです。

 1431(永享3)年17歳の時、上人は中納言広橋兼(ひろはしかね)(ごう)猶子(ゆうし)となって(しょう)蓮院(れんいん)剃髪(ていはつ)得度(とくど)。法名は蓮如、(いみな)(けん)(じゅ)。以後、教学の研鑽に全力を傾注。各種略年譜に記載された事項を見てもその実態が明らかです。笠原一男氏によれば1434(永享6)年、上人20歳の5月『(きょう)(ぎょう)信証(しんしょう)延書(のべがき)を書写したとのこと。『教行信証』はいうまでもなく宗祖親鸞聖人のライフワークであり、本願寺教団の根本聖典。膨大なボリューム。真宗門徒必携のバイブル『真宗聖典』(A5判・全1143頁)の中で250頁余を占めています。

10.5ポイントの活字印刷でこの頁数ですから、毛筆で書写するとなると気の遠くなるような膨大な紙数になったことたでしょう。書写作業に要する時間・月日も計り知れないものがあったと思われます。にも拘らず、2年後1436(永享8)年の8月には『三帖和讚(さんじょうわさん)』を書写。そして、1438(永享10)年8月には『浄土(じょうど)真要鈔(しんようしょう)』、12月には『口伝鈔(くでんしょう)』を書写。『浄土真要鈔(じょうどしんようしょう)』は本願寺第三世(かく)(にょ)上人の長男・(ぞん)(かく)上人の述作ですが、浄土(じょうど)文類集(もんるいしゅう)』(著者不明)をもとに安心(あんじん)上の疑義のある点を修正し、浄土真宗の正統な立場より論を展開して一宗の要義を詳論したもの。

さらに、翌1439(永享11)年には『後世物語』と『他力信心聞書』を書写。1441(嘉吉1)年には『浄土真要鈔』(略本)、1446(文安3)年には『愚禿鈔(ぐとくしょう)』をそれぞれ書写。加えて翌文安4年、上人33歳の時には『末燈鈔(まつとうしょう)』を書写。略年譜によればその後も〝書写活動〟は続きますが、これは単に原典を書き写すだけのことではなく、そこには〝学習活動〟を伴っていると思います。PCによる単なる〝コピペ〟とは全く異質なものでしょう。字句の意味するものを質し、さらにはその奥にある親鸞聖人のみ教えを味わいつつ、聖教(しょうぎょう)の一文字一文字を書き写すのが〝書写〟ではないでしょうか。

蓮如上人のそうした〝書写活動〟が、上人35歳ごろから〝教化活動〟の意義も加わったように見受けられます。例えば、「1449(宝徳元)年五月、木越光徳寺性乗に『三帖和讃』を(  )()()()」「1453(享徳元)年『三帖和讚』を書写し、手原道場に()()()」「1454(享徳3)年四月『往生要集』延書きを近江の浄性に()()()」(笠原一男氏の略年譜)等々。いずれにしても20歳から40歳に至るまでの20年間、蓮如上人は書写活動から聞法・講究・研鑽・教化活動に至るまで、実に堅実にエネルギッシュに力を尽くされました。実に感服の至り。

『三帖和讚』が上記度々登場しましたが、はて『三帖和讚』とは?といぶかる向きもおありかと。『三帖和讚』は宗祖親鸞聖人の述作。『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末(しょうぞうまつ)和讃』の総称。浄土和讃118首・高僧和讃117首・正像末和讃114首、合計349首。蛇足ながら、「和讃」とは「和(日本)語の讃歌」。これに対して「漢字(文)の詩句」は「()」。蓮如上人は、初書写から37年を経て1473(文明5)年この三帖和讃を開版。この和讃は、同じく親鸞聖人が著わされた『正信(しょうしん)()』ともども、今日(こんにち)報恩講などの大きな法要や真宗門徒の日常の勤行(ごんぎょう)などで依用(えよう)されています。

ところで蓮如上人の家庭生活は如何に? 上人は1441(嘉吉元)年27歳で如了尼と結婚。翌年第一子順如が誕生。以後、如了尼は13年間に43女を生みましたが、1455(康正元)年112331歳の若さで(げん)(じょう)。その後、上人は再婚・再々婚・再々再婚・再々再々婚を重ね合計5人の妻との間に1314女、合計27人の子をもうけているのです。歴史上の〝実力者〟の中にはこれより多数の子もうけをしたケースもありますが、その殆どはダブルトラックあるいはトリプルトラックで事を成し遂げています。下世話に言えばお妾さんと正妻さんとの共同作業とでも言いましょうか。

 しかし、蓮如上人の場合は驚くべきことにすべて正妻さん。結婚生活77年間に打ち立てた金字塔。歴代の門主も一般庶民も、あるいは我々も、この記録を打ち破ることはまず不可能でしょう。加えて年齢がポイント。若き世代でのこうした活動は、個々人による差はあるにせよ概ね盛んでしょうが、上人の場合は〝老いて益々盛ん〟。最後の子どもはなんと上人84歳(筆者現年齢)の時。亡くなられる前年まで子もうけに励まれたとは驚愕の至り。まさに鉄人。畏れながら、絶倫上人の子もうけの業績を以下にリスト・アップしてみました。記述に瑕疵(かし)があるかもしれませんが、ご容赦をいただきご笑覧のほどを…。

 ●第一夫人:如了(1424 - 1455年) - 伊勢貞房の娘
  *長男:順如(1442 - 1483年)-大阪・出口光善寺開基・願成就院
  *長女:如慶(1446 - 1471年)-京都・常楽寺蓮覚光信室
  *二男:蓮乗(1446 - 1504年)-富山井波瑞泉寺、石川・二俣本泉寺
  *二女:見玉(1448 - 1472年)-福井吉崎にて文明4810日寂
  *三男:蓮綱(1450 - 1531年)-石川・波佐谷に松岡寺を創設
  *三女:寿尊(1453 - 1516年)-大阪・富田教行寺
  *四男:蓮誓(1455 - 1521年)-石川・山田光教寺、瀧野坊、九条坊を開創

●第二夫人:蓮祐(1438 - 1470年) - 伊勢貞房の娘・如了(第1夫人)妹
  *五男:実如1458 - 1525年)- 京都・本願寺第9世、院号は教恩院
  *四女:妙宗(1459 - 1537年)-京都・出家、知恩院椿性禅尼弟子
  *五女:妙意(1460 - 1471年)-早逝
  *六女:如空(1462 - 1492年)-福井・越前大谷興行寺蓮助兼孝室
  *七女:祐心(1463 - 1490年)-京都・白川資氏王室
  *六男:蓮淳(1464 - 1550年)-三重・長島願證寺を開創
  *八女:了忍(1466 - 1472年)-早逝
  *九女:了如(1467 - 1541年)-富山・越中井波瑞泉寺蓮欽妾
  *七男:蓮悟(1468 - 1543年)-石川・崎田坊、中頭坊を開創
  *十女:祐心(1469 - 1540年)-京都・中山宣親室、第11世顕如の曽祖母

●第三夫人:如勝(1448 - 1478年)
  *十一女:妙勝(1477 - 1500年)-京都・山城勝林坊勝林坊勝恵妾

●第四夫人:宗如(? - 1484年) - 姉小路昌家の娘
  *十二女:蓮周(1482 - 1503年)-福井・越前超勝寺蓮超室
  *八男:蓮芸(1484 - 1523年)-大阪・教行寺

●第五夫人:蓮能(1465 - 1518年) - 畠山政栄の娘
  *十三女:妙祐(1487 - 1512年)-京都・山城勝林坊勝恵室
  *九男:実賢(1490 - 1523年)-滋賀・近江堅田称徳寺
  *十男:実悟(1492 - 1583年)-大阪・門間願得寺開基、実梧旧記他編著
  *十一男:実順(1494- 1518年)-大阪・河内の西證寺を伝領
  *十二男:実孝(1495 - 1553年)-奈良・蓮如開創の本善寺住
  *十四女:妙宗(1497 - 1518年)-京都・常楽寺実乗光恵室
  *十三男:実従(1498 - 1564年)-京都・蓮如開創の枚方順興寺伝領

合掌

2020/07/03  前住職 本田眞哉 記

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