法 話

(234)「蓮如上人(6)

 


 
大府市S・E氏提供

 

仏光寺派の異端

 



本願寺第八世・蓮如上人が発出された「御文」は、本願寺再興を図るための教線拡大に寄与するとともに、後の世代、今日に至るまで独特の教化アイテムとして重用されています。上人を奮起させた源としては、ご自身の発心(ほっしん)のみならず当時の時代背景があると思います。前回までにも触れたところですが、本願寺第四世・善如、第五世・綽如(しゃくにょ)、第六世・巧如(ぎょうにょ)、第七世・存如の4上人の時代のおよそ100年間、本願寺は佛光寺に比し衰微していました。しかし、佛光寺の繁栄のもとは。世俗的信仰に堕したためだといわれています。

一方、本願寺教団についても「専ら理法を談じ、威儀を以て本とするところの本願寺を、真宗本来の伝統精神にかえし、その伝統に立つ本願寺として蘇生させるためには、きびしい自己批判がなされなければならない」との指摘も。いずれにしても、宗祖親鸞聖人の開かれた教えに背いている現状を憂いています。当時、かつて親鸞聖人が得度された青蓮院の権勢が強く、特に善如・綽如上人時代の本願寺はその権勢に押され、聖道門的威儀(いぎ)を重んじざるを得ませんでした。

1520(永正)年代に実梧師(蓮如上人の十男)が編した蓮如上人の語録を、後に稲葉昌丸氏が復元して著わした『実悟旧記』には、次のような記述がみられます。

善如上人 綽如上人 両御代 の事 前住上人仰せられ候。両御代は 威儀を 本に 御沙汰候し由、仰せられ候。然らば 今に 御影に 御入 候 由 仰せられ候、黄袈裟(きげさ) 黄衣(こうえ) にて 候。然ば 前々住上人 御時、あまた 御流に  そむき 候 本尊 以下、御風呂の たび ごとに やかせられ 候。(以下略)

前住上人(第九世・実如上人)が、第四世・善如上人、第五世・綽如上人の代の本願寺教団の実情を語られたところによると、両御代は「威儀」を本とし、宗祖親鸞聖人が排した聖道門の黄袈裟(きげさ)黄衣(こうえ)()(よう)していた。前々住上人(蓮如上人)御時、御流(宗祖の教えの流れ)に背いた本尊等を、お風呂を沸かすたびごとに焼かせられた。

と弊習批判の実話を披瀝。

 当時の本願寺教団に蔓延していた旧例を打破して、本来の御流に返さんと願った意気込みが伝わってきます。しかし、こうした弊習・異端・邪義は本願寺教団のみならず、真宗他派、就中仏光寺派において顕著だった模様。仏光寺派の系譜は、開祖はもちろん親鸞聖人。そして第二世・真仏上人、第三世・源海上人、第四世・了海上人、第五世・誓海上人、第六世・明光上人と続き、第七世が了源上人。了源上人は事実上の仏光寺派の創設者。上人は1324(正中元)年、山科に興正寺を建て、1329(元徳元)年京都汁谷に寺基を移し仏光寺と改名。この仏光寺が急速に発展。

その原因は如何。了源上人(1295《永仁3》年~1336《建武3》年)の主張する特色ある教義と、その教義を人々に教えて信じさせるために考え出した手法にあったようです。まず、特色ある教義とは。笠原一男氏の『蓮如』によれば、

世に相承の先徳、現在の「知識」=坊主=布教者はみな、法蔵菩薩の本願他力が現れた姿であり、(ほう)便法(べんほっ)身報仏(しんほうぶつ)来迎(らいごう)として今日の世に具体的にあらわれたのが、ほかならぬ知識=坊主(ぼうず)である。坊主はむかしの法蔵(ほうぞう)比丘(びく)の本願を、今日直接に布教する役割を果たす来迎の弥陀そのものである。(中略)仏光寺派の主張では、坊主=阿弥陀仏であり、さらにその坊主によって往生を許された門徒も阿弥陀仏()に入ることができるのである。

次に、その手法とは? 了源上人が摂った具体的な手法は名帳(みょうちょう)」。名帳とは、門徒の名を書きしるす帳面。同じく笠原一男氏は次のように記述しています。

名帳によって坊主は門徒を獲得し、しかもこれをしっかりと組織したの である。(中略)この帳面に名をしるされた時その人の極楽往生がその場で約束されるというものである。門徒にとっては、往生(おうじょう)決定(けつじょう)がその眼で確かめられるのである。まさに魅力的な布教方法といえよう。しかし、そうした事実は、親鸞が極力否定し続けたものであった。それは、親鸞に対する異端(いたん)の最たるものともいえるものであった。

了源上人が創案したもう一つの手法は「()系図(けいず)」。絵系図とは、名帳をにぎる各地の坊主の肖像を系図風に描いたもの。笠原氏によれば絵系図作成の目的は、仏法相承の系統を正しくすることと、信仰を同じくする人びとの姿を後世に残すため、とのこと。しかし、門徒の崇める本尊を宗祖の「帰命尽十方无碍光如来」の名号から、坊主自身の肖像に変えるということは、思想的大転換。まさに〝偶像崇拝〟。『実悟旧記』の第二条には「他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像、というなり。当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号、というなり」と戒めています。宗祖親鸞聖人の教えに対する真っ向からの異端ではないでしょうか。

加えて、仏光寺は門徒が勝手に師匠の影像をかき写すようなことは、教団統制を乱すものとして禁止。もし、これに背くものがあれば、その人物所有の本尊・聖教を没収したとか。絵系図を作ることによって仏光寺の法脈を明らかにし、坊主を仏光寺のもとに統制しようとしたのです。仏光寺が認め、絵系図にのせた坊主の姿が、門徒から本尊として拝まれるとあっては、坊主たちは本山・仏光寺の命令に従わざるを得なかったでしょう。絵系図の中に姿をのせてもらうことが、坊主にとって門徒を増やすことの最大の条件に。同時に、名帳と併せて坊主が門徒の往生(おうじょう)与奪(よだつ)の権を握ることに。はたまた、坊主が阿弥陀仏と同じ位になるという危惧も。

一方、こうした異端の教説・教化に対する批判・非難は無かったのでしょうか。いやいや、ありました。『改邪鈔(がいじゃしょう)』の中に。因みにその『改邪鈔』とは。1337(建武4)年本願寺第三世・覚如上人(1270《文永7》年~1351《観応元》年)が撰述した(じゃ)()異説(いせつ)を批判した書。当時、本願寺教団を凌ぐ形勢にあった仏光寺教団を主な対象としていることが(うかが)えます。覚如上人はその劈頭(へきとう)で「名帳」の問題を取り上げています。

一 今案の自義をもって名帳と称して祖師の一流をみだる事。

(前略)このほか、いまだきかず、「曽祖師源空祖師親鸞御相伝の当教 において、名帳と号して、その人数(にんじゅ)をしるして、もって往生浄土の指南とし、仏法伝持の支証とす」ということをば。これおそらくは、祖師一流の魔障(ましょう)たるをや。ゆめゆめかの(じゃ)()をもって、法流の正義(しょうぎ)とすべからざるものなり。(中略)なかんずくに、かの名帳と号する書において序題をかき、あまっさえ意解をのぶと云々(うんぬん)。かの作者において誰のともがらぞや。おおよそ師伝にあらざる謬説(びゅうせつ)をもって、祖師一流の説と称する条、(みょう)(しゅう)照覧(しょうらん)()し、智者の謗難(ほうなん)をまねくものか。おそるべし、あやぶむべし。

そして覚如上人は『改邪鈔』の第二の条で、「絵系図」についても鋭く批判しています。

一 絵系図と号して、おなじく自義(じぎ)をたつる条、(いい)なき事

(前略)仏法()()の恩徳を恋慕し(ぎょう)(そう)せんがために、三国伝来の祖師・先徳の像を図絵(ずえ)し安置すること、これまたつねのことなり。そのほかは祖師聖人の御遺訓として、たとい念仏修行の号ありというとも、「道俗男女の形体(ぎょうたい)を面々各々に図絵して所持せよ」という(おん)おきて、いまだきかざるところなり。しかるに、いま祖師・先徳のおしえにあらざる自義をもって、諸人の形体を安置の条、これ渇仰(かつごう)のためか、これ恋慕のためか、不審なきにあらざるものなり。(中略)「帰命尽(きみょうじん)十方(じっぽう)無碍光(むげこう)如来(にょらい)」をもって、真宗の御本尊とあがめましましき。いわんや、その余の人形(にんぎょう)において、あにかきあがめましますべしや。末学自己の義すみやかにこれを停止(ちょうじ)すべし。

      以上のような本願寺三世・覚如上人の批判とは裏腹に、名帳・絵系図の論理は仏光寺派のみならず、真宗諸派の坊主や門徒の間にもく深く浸透していったとのこと。坊主が名帳によって門徒を確保するとともに、極楽往生を約束して門徒に安心感を与え、統制することができとのこと。こうした手法によって、仏光寺教団は飛躍的に発展を遂げていきました。一方で本願寺教団は、本編(1)で触れましたように「サヒサヒ」とした状況を呈していました。『本福寺由来記』を再録すれば、

「御本寺様ハ人セキ(跡)タ(絶)へテ、参詣ノ人一人モミ(見)エサ  マ(給)ハス。サヒサヒ寂寂)トオハシマス」とあり、次いで「応永二十年ノ比(ころ)、シルタニ(汁谷)佛光寺コソ、名張ヱケイヅ(絵系図)ノ比ニテ、人民クンシフ(群集)シテ、コレニコソ((こぞ))ル」

という有様でした。

合掌

2020/09/03  前住職 本田眞哉 記

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