法 話

(235)「蓮如上人(7)

 


 
大府市S・E氏提供

 

現世(げんぜ)利益(りやく)異端(いたん)
 
 
 

      前回取り上げた仏光寺の了源上人と本願寺の蓮如上人とは、活躍の時代としてはほぼ百年余の開きがあります。にもかかわらず、了源上人が創案した「名帳(みょうちょう)」や「()系図(けいず)の」の異端(いたん)教義(きょうぎ)は、仏光寺のみならず真宗諸派の坊主(ぼうず)門徒(もんと)の中に広く深く浸透していたと思われます。こうした門徒に極楽往生を約束し、坊主が本尊であるという異端の教えは、坊主からも門徒からも歓迎され、繁栄を求める教団にとっては好材料だったのでしょう。しかしそこからは、坊主は施物(せもつ)を頼りにし、門徒は坊主に物をささげて信心を得る、という歪んだ論理が生まれることになりました。

 一方、もう一つの異端「現世(げんぜ)利益(りやく)」の異端が浮上してきました。というよりは、前述の施物頼みの異端の背面にもともとある異端。これは深刻な問題。〝寺院経営〟に励む坊主としては、経済的基盤を門徒の志においているため、門徒を一人でも多く確保し寺院の財政を豊かにしたいところ。そこからは、わが弟子人の弟子という坊主同士の争いが発生。そして、より多くの門徒を獲得するためには、念仏する人びとの要求に応えて、念仏そのものが現世利益になり、病気も治れば金持ちにもなり、幸福な生活が送れるという教説が生み出されてしまったのです。

 こうした念仏=祈祷(きとう)の教説が宗祖親鸞聖人の教えに違背していることはいうまでもありません。今日的問題でもありますが、室町時代には他宗派はもちろん真宗他派の中にも、念仏=祈祷の教説を是とした教団もあったとのこと。しかし、本願寺教団は三世(かく)(にょ)上人以来、当然のことながらこうした教説を異端・異安心(いあんじん)として退けてきたのです。現世利益の異端を容認する真宗他派が華々しく発展したのに対して、親鸞聖人の正統的教説を受け継ぐ本願寺教団が衰微(すいび)から抜け出せないという皮肉な現象が続いたのです。

 では、念仏即祈祷という(じゃ)()が広まっているのに対して本願寺教団はどう対処したのでしょうか。蓮如上人の門弟(くう)(ぜん)師が記した『空善記』の付録『兄弟中申定絛々』の中に次のような一条があります。

     一。於一流ノ中者 為病人 加持祈念()等不可有 次第也。堅 可停止 事。
大意は、門徒中に病人が出た場合、加持・祈禱はすべきではない。堅く止めるべきである。

 また、笠原一男氏によれば、『蓮如上人九十個絛』という書物に次のような文言があると指摘していらっしゃいます。
      御門徒ノ中ニワヅラヘバ、(きとう)シ()神子(かみこ)陰陽師(おんみょうじ)ヲモテ病者ヲイノリ、
     或イハ今生(こんじょう)ノ寿福ヲ神ニ祈ル(やから) ハ、聖人ノ御門徒ニアラズ。イソギテ門徒ヲハナサルベキ事。

 本願寺の門徒とて病気になれば治りたい。祈祷師(きとうし)陰陽師(おんみょうじ)に、病気の平癒や現実生活の幸福を祈ってもらう門徒が事実いたのでしょう。そうした門徒は、親鸞聖人の門徒ではない、直ちに離脱すべきである、と強く戒めています。

 余談ながら、現代社会ではその威力のみならず存在そのものも影が薄くなっている祈祷師・陰陽師とは? 祈祷師は、現在でもアジアやアフリカはじめ世界各地でその活躍ぶりがテレビ報道などで伝えられることがあります。日本でも、祈祷師が五穀豊穣や無病息災を祈ったり雨乞い祈願をしたり…とか。文明社会の真っ只中、私達の身近でも現代版の祈祷行事を目にすることがあります。ただ、祈祷師は怪談話に出てくるような異様な風体でなく、いわゆる〝神主〟スタイル。祈祷する言葉も怪しげな〝呪文〟ではなく「祝詞」。

 かつて私が、地元の教育委員在任当時(1980《昭和55》年~2008《平成20》年)、住宅団地開発が進み児童生徒が急増。学校の新設や校舎の増築が相次ぎました。そうした折、着工に当たり起工式を執行。主催は建築請負業者。教育委員会や行政が主催することはできません。なぜならば、式典の中にいわゆる宗教行事「神事・地鎮祭」があるからです。厳密にいえば、公有地である学校の敷地内で宗教行事を執り行うことは憲法違反? しかし現実には行われています。この点で争いになった話は聞いたことがありません。慣例として容認されているのでしょうか。

さて、工事予定地にはテントが張られ式典の準備が整っています。正面中央に仏教でいうご本尊に相当するご神体?が祭られていたかと思いますが、記憶が定かではありません。その前には祭壇が設けられて、いろいろなお供えものがありましたっけ。祭壇脇の白布の台上には鎌・鍬・鋤。そして近くには円錐形の盛砂。祭壇から距離をとって参列者席を設定。中央向かって左半分には設計・施工業者、右半分には施主である町長・学校長・町議会議長、議員・教育委員長、委員・区長等々の公職者。幕外に置かれた手水(ちょうず)(おけ)の水で手を清めて式場へ。

開式のことばに続き、伝統的な装束(しょうぞく)を身につけた神職が(はらえ)(ことば)をあげ、()()を付けた榊の枝でお(はら)い。参列者一同起立して、罪や穢れを(はら)ってくださいと頭を下げます。この祓い詞、私たちにまとわりつく災難・罪・(けが)れを取り払う、(みそ)という効果があるとのこと。お祓いが済み清らかになったところへ、警蹕(けいひつ)というのだそうですが神職が「オー」と発声。これは神様をお招きする儀式とかで、神様がご到着。その後神様にお供え物をし、いよいよ本番。一同起立して頭を垂れたところで祝詞(のりと)奏上(そうじょう)。神職が工事の安全を祈願。

次は「(かり)(ぞめ)の儀」木製の鎌で円錐形の盛砂の頂に差した稲とか笹を刈り取る儀式。施工主の代表が執行。続いて「穿(うがち)(ぞめ)((くわ)入れ)の儀」。設計・施工等工事関係の代表が、同じく木製の鍬・鋤で円錐形の盛砂を穿ちます。「エイッ」「エイッ」「オー」のかけ声も勇ましく。最後の儀式は「玉串(たまぐし)奉奠(ほうてん)」。私も教育委員長在任時には代表で務めさせて戴きましたが、玉串の持ち方、回し方、供え方、慣れないことで戸惑うこと屡々(しばしば)。式終了後、別のテントに(しつら)えられた席で「献杯(けんぱい)の儀」。1980年代当初には土器(かわらけ)に満たし御神酒(おみき)をしっかり飲んでいらっしゃる方もありましたが、その後飲酒運転取り締まりが厳しくなり、御神酒による献杯の儀は形だけになったとか。

親鸞聖人の、加持(かじ)(きとう)はすべきではないという教説から、私事の体験談にのめり込んでしまい失礼しました。しかし、事ほど左様に一般的には加持・祈祷に対する批判精神や問題意識は皆無といっても過言ではありますまい。今日的祈祷の対象はといえば、受験合格、商売繁盛、無病息災、息災延命、交通安全、家内安全、選挙当選試験合格、開運招福、良縁成就、夫婦円満、身体健全、病気平癒…等々、枚挙にいとまがありません。参拝者から、こうしたご祈願を受け入れご祈祷し、その証左を交付している神社・仏閣は数多あるようです。

心底衷心より大願成就を願っての方もありましょう。一方〝悪いことではないから〟とか、あるいは〝旅のつれづれに〟軽い気持ちでご祈祷を受けていらっしゃる方もおありかと。しかし、祈願する心の底に何があるのか、静かに見つめてみる必要があると思います。下世話な話ながら、卑近な例話を一つ。仲良しの二人の中学生がいました。二人は高校進学に向けて猛勉強。二人は同じ高校を受験することに。それぞれ両親は息子の入試合格を祈願。入試合否判定のボーダーラインで二人の成績が並んだとした場合、仲良しの友を蹴落とすことを祈ったことになるのでは? 願を掛けられた神様も両方からの願いを如何にすべきか? はてさて?

折しも本稿執筆中、2020(令和2)年928日付けの『中日新聞』朝刊に興味深い記事が掲載されていました。『トヨタ ウォーズシリーズの第6部――1。見出しは「事故ゼロへ 祈り半世紀」。翌929日の第6部――2の見出しは「科学的な祈り 伝えたい」。「祈り」に注目したいと思います。

合掌

2020/10/03  前住職 本田眞哉 記


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