法 話
(237)「蓮如上人(9)」
大府市S・E氏提供 |
祈る
蓮如上人シリーズ、話が脇道へそれてしまいましたが、本題へ戻しましょう。前々回(10月)に、『蓮如上人九十個絛』という書物の中から次のような文言を引用しました。再掲しますと
御門徒ノ中ニワヅラヘバ、祈禱シ(師)・神子・陰陽師ヲモテ病者ヲイノリ、
或イハ今生ノ寿福ヲ神ニ祈ル輩ハ、
聖人ノ御門徒ニアラズ。イソギテ門徒ヲハナサルベキ事。
本願寺の門徒とて病気になれば治りたい。祈祷師や陰陽師に、病気の平癒や現実生活の幸福を祈ってもらう門徒が事実いたのでしょう。
そうした門徒は、親鸞聖人の門徒ではない、直ちに離脱すべきである、と強く誡めています。
同じ書物の別の項にも同様の趣旨の文言が見られます。
当流門徒ノ中ニオヒテ、病者ヲ祈ルコト諸方ニ遍布セシム 強ク停止スベキ事
「病者ヲ祈ル」とは、いうまでもなく病気平癒を祈ること。こうした行為を諸方各地に行き渡らせている。これはしてはならないことだ。と誡めています。2項に亘って病気平癒の祈りが取り上げられているということは、そうした事例が多々あったと思われます。上人が危機感をもって鳴らされた警鐘ではないでしょうか。
翻って、この蓮如上人の「祈り」の問題、いうまでもなくそのルーツは宗祖親鸞聖人にあります。「浄土真宗には祈りがありません」ときっぱりいい切る方も。まさにそのとおり。一方、「祈りは宗教の原点であり、本質だ」とおっしゃる方も。しかし、お念仏を喜んだ真宗門徒の先輩達は、日常会話においても、手紙の文言にしても、「祈る」という言葉をできるだけ使わないようにしてきました。私自身も、祝辞・挨拶等に立つとか、手紙を認める場合など「祈る」という言葉は使わないように配慮しています。
ところで、改めて「祈る」ということはどういうことなのでしょう。「祈る」の定義は?
『広辞苑』第三版で調べてみると次のように記されていました。
いの・る【祈る・禱る】《他四》(イは斎、神聖の意。ノルは告の意)
①(古くは助詞「を」をとったが、後に「に」をとる)神や仏の名を呼び、幸いを請い願う。祈願する。
②心から望む。希望する。念ずる。
③(相手や物事に)わざわいが起るように祈願する。のろう。
①は、祈りによって「吉凶禍福」の「吉福」が実現されるということ。ポイントは助詞の「を」が後に「に」になったこと。「神を祈る」であれば自己完結。しかし、「神に祈る」では「に」の次に〝~を〟と祈る内容と申しますか〝見返り〟が入ります。例えば、前記『蓮如上人九十個絛』の中の「病者ヲ祈ルコト」ならば見返りは病気平癒。先祖や故人の祟りを恐れての追善供養のお参りをするとか、はたまた受験合格・商売繁盛・金運アップを祈願するとか、現代社会ではこれらの息災・延命・招福の宗教が大繁盛。
一方、③は①の真逆で、祈りによって「凶禍」が実現されるというのです。人や物事に災いが起こるように祈願する。憎き相手を呪い殺すための祈願。昔聞いた「丑の刻参り」の話を思い出します。「草木も眠る丑三つ時」と押し殺した声で始まる怪談。丑の刻は午前1時から3時。その2時間を4等分すると30分。これを〝一つ〟と呼び、その三つ目が〝三つ〟時、午前2時ごろ。この時刻に神社のご神木に憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ち込む。例えば、嫉妬心に苛む女性が白衣を身につけ、点した蝋燭を突き立てた鉄輪をかぶって、ライバルに見立てた藁人形を釘で打ち込む。7連夜で満願となるものの、他人に見られると効力が失せるとか。
祈りの定義②は、「心から望む。希望する。念ずる。」その内容が特定されず、したがって〝見返り〟も定かではありません。また、その祈りの中身を実現する主体が漠然としており、神や仏の姿が見えてきません。しかし、このことを逆手にとれば、つい無意識に自分中心の欲望を満たすために使ってしまう「祈り」という言葉を、「念ずる」に置き換えることによって、親鸞聖人の教えに背くことの誤りに気づかせて戴ければ幸いかと。先輩門徒の皆さんが「念ずる」をよく使われたのも宜なるかな。勝手な論理、失礼しました。
「念ずる」といえば「念仏」。各種辞典には、念仏とは「仏を念ずる義」「特に、阿弥陀仏を念ずるもの」と記載されています。仏教が中国から伝来後、日本では当初は観想念仏が中心でしたが、10世紀頃から次第に称名念仏が注目されはじめ、1175年(承安5年)法然上人が浄土宗を開宗するに至って急速に流布。さらにその弟子親鸞聖人が百尺竿頭に一歩を進めて、「南無阿弥陀仏」と称えて阿弥陀仏を念ずる称名念仏こそが正しき往生の業因であるとの教えを開かれ、念仏といえば南無阿弥陀仏と称える称名念仏をさすようになりました。我が浄土真宗のキャッチコピーは「念仏成仏これ真宗」。出典は、親鸞聖人作の『浄土和讃(大経意)』。
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮わかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
【大意】他力念仏のはたらきによって仏になるのが真実の教えです。
自力でさまざまな修行やもろもろの善行を励んで仏になることを説く教えは仮りの教えにすぎません。
真実の教えと仮りの教えとをわきまえないで
どうしてさとりの浄土の世界を知ることができるでしょうか。
念仏によって成仏できる「真実」(
因みに、親鸞聖人の主著はいうまでもなく『教行信證』ですが、数々の和讃も著されています。上記の他に350首余の和讃が上梓されています。『浄土和讃』(118首)『高僧和讃』(119首)『正像末和讃』(116首)。総称して『三帖和讃』。その『正像末和讃(愚禿悲嘆述懐)』の中に次の一首が収載されています。
【註】愚禿:《禿=頭を剃った、愚=おろか者》僧が自分をへりくだっていう語。特に、親鸞聖人が自称に用いました。
かなしきかなや道俗の
良時吉日えらばしめ
天神地祇をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす
【大意】僧侶も世俗の人たちも
日柄を選んでもらい
天の神や地の神を崇めて
占いや祈りごとに努めています。こうしたことは大変悲しいことです。
結婚式の日取りを決める場面で「3月中の〝大安〟の日はいつですか?
やはり挙式は大安の日でないと・・・」。訃報が入りました。火葬場の状況も視野に入れて葬儀社と葬儀の日時を調整します。「この日は〝友明け〟になりますから、火葬場が混みますよ」と、担当者。お家を建てるとなると〝大安吉日〟に地鎮祭。神主が祝詞を奏上し、塩を撒いてお祓い。地の神を鎮めるためでしょうか。ご門徒の中には、仏式で起工式を執り行われる方もいらっしゃいます。三つ折り本尊を安置し、卓に打ち敷を掛け三具足で荘厳。読経中に施主・工事関係者等参列者が焼香。最後に法話と関係者の挨拶。
以上、親鸞聖人・蓮如上人の教えを基に「祈り」について考えてみました。このことは、浄土真宗の教えの根幹に関わる問題。次回でも引き続き考察してみたいと思います。
合掌
2020/12/03 前住職 本田眞哉 記