法 話

(240)「蓮如上人(11)

 

大府市S・E氏提供

 




御文( お ふみ)

 

御文(おふみ)」といえば蓮如上人、如上人といえば「御文」。御文は本願寺第八世・蓮如上人の発案による教化活動の〝新案特許〟(失礼!)といっても過言ではありますまい。この御文については、本シリーズ「蓮如上人(5)」ですでに記したところですが、改めて今一度御文の概要について触れてみたいと思います。因みに、本願寺派(お西)では「御文章(ごぶんしょう)」といい、また「(かん)(しょう)」とか「(ほう)(しょう)」とも呼ぶとのこと。一方、高田派では御文の拝読はありません。何故か。端的に言えば、本願寺派第八世・蓮如上人と高田派第十世・眞慧上人との間にトラブルが発生したため。

 眞慧上人は、蓮如上人より19歳年下で、最初は蓮如上人と親交があったといわれていますが、その後対立。その原因は、本願寺教団の急激な発展により、高田教団から本願寺教団に帰属替えする門徒が急増したこと。高田派は、親鸞聖人の直弟子・眞佛坊代に本願寺派から分派。以後、代を重ねて現在二十五世。一方、我が東本願寺(大谷派)では、昨(2020)年1120日門主継承式が執り行われ、第二十五世から第二十六世へとバトンタッチされました。遡って、高田派も含めて真宗10派の第一世(開祖)は、いうまでもなく全て親鸞聖人。因みに真宗10派とは? ご門徒に「浄土真宗には10派ありますよ」とお話ししますと9割以上の方が「ええッ、知らなかった」とおっしゃいます。以下にその10派名と本山名を列挙しましょう。

本願寺派(西本願寺)・大谷派(東本願寺)・高田派(専修(せんじゅ))・佛光寺派  (佛光(ぶっこう))・興正派((こう)(しょう))木辺(きべ)(錦織(きんしょく))出雲(いずも)()((ごう)(しょう))・誠照寺派((じょう)(しょう))(さん)門徒(もんと)((せん)(しょう))山元派(やまもとは)((しょう)(じょう))。(括弧内は本山寺号

この十派が1970(昭和45)年に「真宗(しんしゅう)教団(きょうだん)連合(れんごう)」を結成しました。事業の一つは『法語カレンダー』の出版。カレンダーの表紙には10派名が記載されています。

 話が脇道に逸れましたが元へ戻して、そもそも「御文」とは何ぞや。蓮如上人が門徒に書き与えられた消息体(しょうそくたい)の法語のこと。文字通り「ふみ・手紙」。親鸞聖人の教えを漢字と仮名で(したた)めた手紙文。原典史料に見る上人の直筆影印は、草書・平仮名・変体仮名の交じり文。ただ、当時の一般庶民の識字状況では、読解は困難だったと推測されます。で、その当時とは?とお尋ねの向きもおありかと。その時代は、文明年間から明応年間(1469年~1499年)の約30年間と考えられます。なお、蓮如上人の在世は1415(応永22)年~1499(明応8)年、85歳で還浄。

在世中に蓮如上人は御文を何通書かれたといえば、真偽不明なものを除いて221通。その中の1469(文明)3年から1498(明応7)年にわたる58通を一帖目(いちじょうめ)から第四帖目に、年次不明の22通を第五帖目に、80通を五帖に編集収録。編集に携わったのは、第九世・(じつ)(にょ)上人とその第三子・(えん)(にょ)上人。わが宗門で日常的に拝読されている「御文」はこの『五帖(ごじょう)御文(おふみ)』。そして、本願寺第十世證如(しょうにょ)上人(實如上人の孫・蓮如上人の曾孫)が五帖御文を開版。漢字とカタカナで印刷製本され、広く門末に流布されました。なお、この他に『(げの)御文(おふみ)』と『帖外(じょうがい)御文(おふみ)』等があります。

カタカナ表記といえば思い出すのが往時の「電報」。IT時代の昨今、「電報」はあるのでしょうか、死語かな? 「電報」は旧郵政省所管の郵便局の事業の一つ。急な用件があるときに打つのが電報。私の幼少の頃を思い出します。当山は〝田舎〟に立地、電話はありませんでした。近隣の商店などの電話番号を借りて連絡先としていました。()を電話番号の頭に付けて表記。発信する時にはその店へ行って電話機を拝借。着信の場合は店の方が呼びにいらっしゃる。何はともあれお店へ急行し、電話に出て通話。文字通り呼び出し電話。

電話機はといえば、公衆電話ボックスほどのガラス戸付きの〝電話室〟が店内にあって、その中に電話機が(しつら)えられていました。電話機は、幅2030㎝、縦30㎝~40㎝ほどでしたか、木製のボックス。その正面に二つのベルと送話器。受話器はボックスの左側面のフックに掛けてあり、受話器を取るとフックが上がって継電器がONになるという寸法。発信する場合は、確か受話器を掛けたままボックスの右側面のハンドルを右回転させる。すると信号が局の方へ流れ、電話交換手が出る。「何番へ繋ぎますか?」と聞かれたどうか忘れましたが、架電したい相手の番号を告げる。繋がったら会話、という流れだったと思います。

電話交換台があったのは、郵便局の二階だった記憶。数台の交換台の机上には無数のプラグが立ち並び、衝立状の正面にはこれまた無数のジャックがビッシリ。ベルが鳴ったかランプが点いたのか、記憶が定かではありませんが、女性の電話交換手は素早くプラグを引き上げ、所定のジャックに差し込み接続完了、通話OK。交換手は片耳にオーバーヘッドレシーバーを掛けて通話者の声を聞き、回線の接続・遮断作業を繰り返していました。蛇足ながら、レシーバーは現今のヘッドフォンとは比べものにならない粗悪な音質の代物。

電報から離れて電話の話に迷い込んでしまいましたが、「電報」に戻しましょう。「電報で~す!」トントントントンと玄関の戸を叩く音。真夜中。意識朦朧の状態で戸を開けると〝郵便屋さん〟が立っていました。「電報です」と名刺ほどの大きさに折り畳んだ電報を差し出し「夜分に失礼しました」。電報はB6判ほどの大きさの紙1枚。縦半分に折って右半分に宛名、左半分に電文。電文はカタカナで、簡潔に要件が書かれていました。確か文字数が多いと料金が加算された記憶。インターネット全盛の現今からは隔世の感を禁じ得ません。

では、発信の手立ては如何? 郵便局へ出向いて、確か「電報(でんぽう)頼信紙(らいしんし)」とかいう用紙に宛先と電文を記入。電文は全てカタカナの縦書き。漢数字はOKだったかな? 用紙にはマス目が印刷されていて、マス目にカタカナで一文字ずつ記入するという方式。ただ、濁点や半濁点は、次のマスに入れたのか、或いは同じマス目に濁点・半濁点を付けたまま書き入れたのか記憶が曖昧。確定申告で氏名にフリガナを付ける時、濁点を次のマスに書き入れることになっていますが、フト往時の電文の記憶が蘇ります。

頼信紙に全て記入し窓口へ差し出すと送信開始。局員が頼信紙に記入された電文を送話器に向かって読み上げます。ただ、棒読みでは間違いが発生するということで、独特な読み方をします。「朝日のア」「イロハのイ」と「新聞のシ」は朧気な記憶の中で蘇りましたがその他は出てきません。そこでネット上で検索したところ、ありました。HP「いろはに情報館」。その中に電波法で規定された「和文通話表」なるものが掲載されていました。「父危篤 すぐ帰れ」を和文通話表に従って読み上げると、「千鳥の、千鳥の、切手の、東京の、クラブの(段落)、雀の、クラブのク、(濁点)、為替の、平和の、蓮華の」といった塩梅(あんばい)

前掲の電文は、急報の典型的な例で、ほぼ意を尽くしていますが、商談とか交渉条件などの電文ではそうはいかないでしょう。史料に見る頼信紙の電文のマス目は50字分。400字詰めの原稿用紙の8分の1。長々と電文を綴ることは不可能。加えて、字数によって料金がカウントされることも勘案すれば、詳細についは手紙に依る方が得策。そこで、本文の最後に「アト フミ」のフレーズ。「フミ」とは手紙のこと。「詳細は手紙で知らせします」の意。蓮如上人は、宗祖親鸞聖人の教えをフミ(手紙)に(したた)め門徒に送られたのです。そのフミが『五帖御文』に編集されて、500年余を経た今日でも教化アイテムとして重用(ちょうよう)されているのです。

合掌

2021/03/03  前住職 本田眞哉 記

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