法 話

(242)「蓮如上人(13)

 

大府市S・E氏提供
『仏教と仏法』   

 

                                                

本願寺中興の祖といわれる第八代・蓮如上人は、本願寺第七代存如上人の長子として1415(応永22)年、京都東山大谷でご誕生。時代は室町時代中ごろ、ヨーロッパではチェコのヤン・フスの宗教改革の時代。当時、同じく親鸞聖人を宗祖と仰ぐ佛光寺に比して衰微していた本願寺を上人が再興されたのです。宗祖親鸞聖人亡き後、代を重ねること五代・六代・七代、特に蓮如上人幼年期の本願寺は衰退の極にあったといわれます。古文書に依れば、本願寺は人の往来も絶えて参詣の人一人も見えない。一方、佛光寺は人民群集して挙っているとのこと。要するに本願寺は衰退し、佛光寺が繁盛しているということでしょう。

教団の衰微のみならず、大家族の家庭経済も不如意だった模様。灯明油が無いときは、(すみ)()()いた明かりや月の光で書物を読まれたとか。はたまた、着物は非常に粗末な仕立の物(紙子(かみこ))であったとも。来訪者があったときなど、一人分の汁を水で薄めて三人分にしていただいたとか…。そうした中、上人は教団再興に精力的に取り組むことを発願(ほつがん)されました。大谷大学の『真宗年表』には、「1429(永享元)年 一宗再興の志を興す」とあります。上人十五歳の時。若年ながら教団の不振な状況を目の当たりにして、座視することはできず一念発起(いちねんほっき)

蓮如上人の第八子・五男(じつ)(にょ)上人(後に本願寺第九世)が撰述された『蓮如上人御一代聞書』にこのあたりのことが詳しく記載されています。

【本文】 仏法再興(第一四二条) 

蓮如上人、御若年の(ころ)、ご迷惑のことに候いし。ただ、御代にて仏法を仰せたてられんと、思し召し候う御念力一つにて、御繁昌候う。御辛労故に候う。

【文意】 蓮如上人はお若いころ、随分苦労されました。その中で、只管(ひたすら)「自分の代で仏法を興隆し、親鸞聖人のみ教えを弘めたい」と願っていらっしゃいました。この御念力一つで仏法(ぶっぽう)繁昌(はんじょう)をもたらされました。まことに上人のご辛労の賜物です。

 蛇足ながら、本文中の「ご迷惑のこと」の語意ですが、現在使われている「迷惑をかけないように」の迷惑とは些かその意を異にしています。どうしてよいか迷うこと・戸惑うことの意から、ここでの語意は「辛いこと・艱難辛苦」。また「仏法を仰せたてられん」の意味するところも少々難解かと。文意に記したように「仏法を興隆したい、再興したい」という意味でしょう。それからもう一点、それは「仏法繁昌」。「商売繁盛」と似て非なるフレーズですが、「商売繁盛」はものを売り買いすることがうまくゆき、大いに儲かること。一方「仏法繁昌」には、売り買いや儲けはありませんが、教団が賑わい繁栄することで、共通点はあるかも…。

ところで、その仏法とは? 仏教とは違うの? とのお尋ねもおありかと。「仏教」と「仏法」、同じように扱われる識者もいらっしゃいますが、意味もニュアンスも若干違うようです。辞典によっても、これまた違いがあるようで、無いようで…。

「仏教」とは:-

▲仏陀の教説・如来の教説・世尊の教説・勝者の教説・と名付け、又特に所説の法に就き、仏法或は仏道とも称す。即ち釈尊を教祖とし、其の説法に基き結集(けっじゅう)編纂(へんさん)せられたる(きょう)律論(りつろん)三蔵(さんぞう)所依(しょえ)とし、人類の転迷(てんめい)(かい)()()(どう)する宗教を云ふ。(以下略):『望月 佛教大辭典』世界聖典刊行協会

▲①仏の説かれた教え。仏になるための教え。仏のことば。②成立宗教としての仏教。③仏の真の趣旨。: 中村元著『佛教語大辞典』東京書籍

▲仏陀となる教え、仏陀の説いた教説の意。また仏法・仏道などの意。仏・仏陀とは、一般に悟れる者(覚者)、転じて仏教の開祖ゴータマ・ブッダ(釈迦牟(しゃかむ)())をさす。(以下略):『日本百科大事典』小学館

▲①紀元前五世紀ころ、インドで釈迦が開いた宗教。その教えは東アジア全域に広まり、大乗・小乗区別や、種々の宗派も生じている。②仏の説いた教え。また、仏になるための教え。仏の言葉。:『大漢語林』大修館書店

「仏法」とは:-

▲①仏のさとった真理()。目覚めた人の理法、教法。仏の説きたもうた法。仏の教え。仏教のもとづく根本。②仏のもろもろの美徳。仏のすぐれた徳。仏のすがたを構成している諸要素。仏の特性。③仏になる材料。さとりの資料。六度。④寺院や僧侶をいう。:中村元著『佛教語大辞典』東京書籍

     仏が教えた法すなわち世間を超えた普遍的な絶対の真理。真宗では大経を真実の教えとし、それに説かれた本願念仏の教法を真実の仏法とする。(以下略):『真宗新辞典』法蔵館

     仏の説ける教法のこと。仏となるべき教法のこと。:『眞宗辭典』法蔵館

     ①仏の道。釈迦の教え。(以下略):『大漢語林』大修館書店

(註)法蔵館の『真宗新辞典』と『眞宗辭典』には「仏教」の項はありません。また、世界聖典刊行協会の『望月 佛教大辭典』と小学館の『日本百科大事典』には「仏法」の項が見当たりません。

 以上、各種辞典の「仏教」と「仏法」に係る定義を列挙してみましたが、率直にいって整理がつきません。なるほど…、そうか…、と頷いてみるものの、「仏教」と「仏法」の違いはすっきりしません。たまたまウェブ上で関連する文書を発見。タイトルは「平家物語の『仏法』」筆者は牧野淳司氏。20036月に開かれた仏教文学会のシンポジウムのレポート。最初に私の目を惹きつけたのはそのイントロ。コメンテーター大隅和雄氏のコメントが記載されていました。以下にその一部引用させていていただきます。

仏教という言葉は中世にもあり、親鸞や日蓮の著作にも出てくる。しかし今日私どもが使う仏教という言葉は、明治二十年頃から一般的になった言葉である。明治も初め頃から二十年ごろまでは仏法史とか仏法概論という言葉が圧倒的に多くて、宗教という言葉が明治十年頃から一般的になり、その影響で仏教という言葉が一般に使われるようになった。似たようなものではないかと思われるかもしれないが、(中略)本当は「仏教」という言葉と「仏法」という言葉は相当に違う。「仏教」という言葉が近代になって使われるようになった言葉の意味からしても、どうしても教義経論、さらに高度な精神的所産を基礎にしたものを予想する。「仏法」は、寺も「仏法」だし、お坊さんも「仏法」だし、そこで行われている儀礼もで、大変幅が広い。(後略)。

 こうしたことを踏まえて、牧野氏は『平家物語』(延慶本)の中の「仏教」と「仏法」の用例を検討した結果を記述。「仏教」の用例が四場面に現れるのに対して、「仏法」の用例数は八十以上。「仏法」と「仏教」の意味内容・用法の違いはといえば、四場面での「仏教」は〝仏の教説〟を指し、「仏法」は抽象的な仏の教えでありつつ、それを体現するものとしての具体的な寺院の勢力を指し示す場合が多い、と指摘。つまり、目に見えない〝仏の教え〟であり、同時に目に見える〝寺院〟でもある、ということでしょう。

 最後に牧野氏は、「(前略)目に見えない仏の教説を指す『仏法』が相当数あるということである。これは、具体的なものよりは、仏の教え全般を指し示したもので、『仏教』に近い意味内容であると言えよう。」とした上で、「『仏法』の用例の大半は具体的な寺院や、目に見える仏像・伽藍を想起させる」と指摘し、論をまとめていらっしゃいます。『平家物語』(延慶本)の中の限られた用例とはいえ、なるほどと頷く反面、些か腑に落ちない点も…。

私の中では、「仏教」は仏の教えそのもの、釈迦の説法、如来の教法。一方、「仏法」は仏の悟った「真理」、仏の説いた「法」という認識。と同時にその「真理・法」が日常生活において師表と仰がれるべきものではないか、と。しかし、牧野氏の「『仏法』は抽象的な〝仏の教え〟でありつつ、それを体現するものとして具体的な寺院の勢力を指し示す場合が多い。つまり、目に見えない〝仏の教え〟であり、同時に〝寺院〟でもある。(後略)」との指摘は私の想定外でした。しかし、前記『佛教語大辞典』の「仏法」の項の「④寺院や僧侶をいう」に照らせば、(むべ)なるかな。

最後に、今一つ注目するフレーズは「王法(おうぼう)」と「仏法」。牧野氏は「『平家物語』(延慶本)巻三の後白河法皇の御潅頂関係の章段に現れた(「仏法」の)用例の中で、『王法』と『仏法』とは互いに尊重し合うべきという理念が表明されており、特定の寺院や宗を指す『仏法』は見られない。ただし、後白河法皇の御潅頂を妨害したのは〝天台の仏法〟であり、(後略)」と、「王法」と「仏法」を取り上げていらっしゃいます。この対句(ついく)、我が宗門においても重要なキーワード。次回の課題としましょう。

 合掌

2021/05/03  前住職 本田眞哉 記

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