法 話

(243)「蓮如上人(14)

 

大府市S・E氏提供

『王法と仏法』

 
 

 

本願寺中興の祖・第八代蓮如上人についての記述の中、「仏教と仏法」そして「王法と仏法」へと論点が移ってしまいました。しかしこの「王法と仏法」、教えを聴聞する上で重要なテーゼではなかろうかと、愚案を巡らす次第。先ず「王法」とは? 辞書で検索してみましょう。岩波書店の『広辞苑』には、【王法(ワウボフ)】①国王の法令。②王たるものの道。とあります。大修館書店の『大漢語林』では、【王法(オウホウ)】①王者の国を治めるおきて〔史記、儒林殿伝〕。【王法(オウボウ)[]②国王の定めた法令、と記述。

eb上の古語辞典では、【王法(おうぼう)】名詞(俗世における)国王が定めた法。帝王の政治。▼仏法(ぶっぽふ)に対していう。と解説。望月『佛教大辭典』には、【王法】の項は見当たりません。次に、法蔵館の『真宗新辭典』。おうぼう 王法  王が定めた法。国家の理念、秩序の総称にも用い、荘園制、武家法、分国法、法度、法律をはじめ、その時代の制度、道徳、習慣を含めた世俗の掟を意味した。(後略)

 上記各種辞典の記述より「王法」については、国家の法律・制度という解釈が成り立ちます。ただ、仏法との対句(ついく)となると奥深い課題を内包しているように思われます。この「王法と仏法」、歴史的にはいつの時代から使われ始めたのでしょうか。かの有名な『平家物語』には「仏法王法牛角(ごかく)(=互角)也」と書かれているとのこと。『平家物語』の原本の成立は、鎌倉時代の承久(1219~)年代以降と伝えられています。ちょうど親鸞聖人がライフ・ワーク『教行信證』を著された時代。

 一方、『太平記』には「仏法王法の相比(あい ひ )す」との記述。因みに『太平記』とは、1370(文中・應安)年代に成立した軍記物語。南北朝時代の50年に亘る争乱の模様を、和漢混淆の文で著したもの。作者は小嶋法師説が有力。両物語における「王法・仏法」についての見方は〝互角〟であり〝相比〟ということでしょう。「王法(おうぼう)為本( い ほん)」でもなく「仏法(ぶっぽう)為本( い ほん)」でもないということ。両者は対立するものではなく、併存・調和するものであって、そうしたことによって国家・社会が守られるという、いわゆる仏法王法両翼論・両輪論。

 本願寺第三世・(かく)(にょ)上人の長子・(ぞん)(かく)上人の書かれた破邪顯正抄( は じゃけんしょうしょう)にも同趣意の文言が見られます。『破邪顯正抄』は1324(元亨4)年の作。内容は、当時の聖道門の僧や山臥(やまぶし)巫女(みこ)陰陽師(おんみょうじ)17箇条に及び専修(せんじゅ)念仏(ねんぶつ)を非難し念仏(ねんぶつ)停止(ちょうじ)を要求したのに対して、それが不当であるとの反論。朝廷に対して、念仏が時機(じき)相応(そうおう)の教えであるという条理を認めて専修念仏が行われるよう、裁定を求めて言上。

その『破邪顯正抄』の佛法・王法に関わる文の一部を以下に引用します。

(前略)佛法・王法は一雙(いっそう)(双)の法なり。とりのふたつのつばさのごとし、くるまのふたつの輪のごとし、ひとつもかけては不可なり。かるがゆへに佛法をもて王法をまもり、王法をもて佛法をあがむ。これによりて上代といひ當時といひ、國土をおさめまします明主、みな佛法(しょう)(りゅう)の御願をもはらにせられ、(しょう)(どう)といひ淨土といひ、佛敎を學する諸僧、かたじけなく天下安穩の祈請をいたしたてまつる。一向專念のともがら、なんぞこのことはりをわすれんや。(中略)世間につけ出世につけ、恩をあふぎ德をあふぐ。いかでか王法を忽諸したてまつるべきや。(後略)
     (こつ)(しょ)軽んじること。ないがしろにすること。
     (しょう)(りゅう)先人の事業を受け継いで、さらに盛んにすること。

時計の針を少しもどして鎌倉時代初期、親鸞聖人のお友達だった?天台宗総本山の()(えん)和尚が1220(承久)年代、日本初の史論書『愚管抄(ぐかんしょう)』を編著。『愚管抄』は、初代天皇・神武天皇から84代・順徳天皇までを、貴族の時代から武士の時代への転換期と捉え、その歴史を記述。文体は漢字カナ交じり文。優雅で正しい言葉といわれる「雅語」だけでなく、口語や卑俗な言葉である「俗語」も使われているとの書評も。その文中に「王法」「仏法」の文字が目に留まりました。

(前略)コノ事ヲフカク案ズルニ。タダセンハ仏法ニテ王法ヲバマモランズルゾ。仏法ナクテハ。仏法ワタリヌルウヘニハ。王法ハエアルマジキゾト云コトハリヲアラハサンレウト。又モノノ道リニハ一定軽重(けいちょう)ノアルヲ。オモキニツキテカロキヲスツルゾト云コトハリト。コノ二ヲヒシトアラハサレタルニテ侍ルナリ。(後略)

【現代語訳】(前略)この(一連の)事を深く考えてみるに、ただ結局は仏法によって王法を守ろうとしているということなのだ。仏法がなくては、仏法が伝来したからには、王法は(それだけでは)ありえないという道理を顕わにしようとするためと、また、物の道理には必ず軽重があって、重い道理を採って軽い道理をしっかりと顕わにされたのである。(後略)

(前略)仏法ト王法トヲヒタハタノ敵ニナシテ。仏法カチヌトイハン事ハ。カヘリテ仏法ノタメキズナリ。守屋等ヲコロスコトハ。仏法ノコロスニハアラズ。王法ノワロキ臣下ヲウシナイ給フ也。王法ノタメノタカラヲホロボスユヘナリ。(後略)

【現代語訳】(前略)仏法と王法を対立する敵にして、仏法が勝ったと言おうとする事は、かえって仏法にとっての傷となってしまう。守屋達を殺すことは、仏法が殺したのではない。王法にとっての悪い臣下を殺しなされたのである。王法のための宝(である仏法)を(その臣下が)滅ぼすからである。(後略)

 以上いずれも王法・仏法両翼論で〝痛み分け〟の感を免れませんが、親鸞聖人の教えの中で「王法」とは? 私の探求不足か「王法」そのものの直接的表現には接していないように思います。ただ、独断と偏見でいえば、聖人の教えの根幹である神祇不拝(じんぎふはい)が「王法」の問題を包含しているのではなかろうか、と。野世英水氏は、論文『真宗における神祇不拝の教学史的変遷』の中で次のように記述していらっしゃいます。

      (前略)日本における世俗権力の民衆支配の形態は、概ね基本的には古代より近代に至るまで、その政治的権威を宗教特に神道によって裏打ちしており、民衆の内面にある神道性を巧みに利用することによって、自らを神聖化・絶対化し、民衆をその内面より支配して行くものとして現れているものと考えられる。(後略)

 この論理から推せば、「王法」が宗教によって裏打ちされた民衆支配の形態をとる政治的権威だとしたならば、それはまさに親鸞聖人の「神祇」と相通ずるものではないか、と。一方、聖人の教えの根幹の一つ「神祇不拝」が、時を経るにしたがってその鋭さが変遷してきているのも事実。聖人から三代目、覚如上人においてはやくも変様が見受けられ、蓮如上人を経て大東亜戦争の〝戦時教学〟でその極に。次回以降そうした流れについて考えてみたいと思います。

合掌

2021/06/03  前住職 本田眞哉 記

                                                 

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