法 話
(245)「蓮如上人(16)」
大府市S・E氏提供 |
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本願寺第八世蓮如上人は、教化アイテムの一つとして『御文』を書かれました。その目的は、いうまでもなく宗祖親鸞聖人の本願念仏の教えや釋尊の教説を、門徒の皆さまに教え伝えること。時は1400年代後半、今から530年ほど前、〝読み書き〟はどれほどの人ができたでしょう。ましてや漢文体の「経・論・釋」に至っては、読解できたのはほんの一握りの人たちではなかったでしょうか。そうした中で、全国の門徒に発信したカナ交じり文の『御文』はまさに蓮如上人の〝新案特許〟といえましょう。
しかし、それでもなお『御文』を読解することが困難な人々が数多いらっしゃったであろうと思われます。そこで先達が発案したのが「御文の拝読」。大きな法要の際には、拝読者は先ず本堂余間御代前寄りの上段に設えられた御文箱から一冊を取り出します。その御文を反した箱の蓋に収めて外陣へ。そして、内陣と外陣の境の金障子際一畳目を御代前に進み、御代前中心より一歩先で両脚を揃えて留まる。その後一歩後退し、先に腰を下ろして着座。なお、このときの着座の向きは、御代前正中に対して横向き。したがって、参詣者に対しても正対でなく横向きとなります。参詣者は〝拝聴〟するかたちに。
着座後御文箱を膝の前に置く。次いで、徐に衣の裾をさばき、袈裟等の威儀を整えて蓋の中の御文を取る。取り方の作法は、左手右手の順に御文の両端を持ち、一度膝の上に構え〝頂戴〟をする。頂戴とは、御文を水平に捧げて鼻の辺りまで頂く作法。頂戴終わって御文を胸の辺りに保ち、字指(栞)のあるページを披く。字指はどのように設定するのかといえば、お勤めする法要によって拝読が定められている御文の文頭にセットしておきます。年間最大で最重要法要である「報恩講」で拝読する御文ももちろん指定されています。
ところで、報恩講とは? 私流に分かりやすくいえば〝恩に報いる講習会〟ではなかろうか、と。しかし、その淵源を訪ねるとそんな単純なものではなく、もっと奥深いものがあるいようです。
当山では毎年12月4日~5日の日程で報恩講を勤修しています。拝読する御文は下記の差定(法要次第)の中に指定されています。
12月4日 午後1時始め(大逮夜)
正信偈 真四句目下
念仏讚 淘 五
和 讃 五十六億七千万 次第六首
五遍反
回 向 我説彼尊
御 文 聖人一流(五帖目第十通)
正信偈 真四句目下
念仏讚 淘 五
和 讃 弥陀成仏のこの方は 次第六首
五遍反
回 向 世尊我一心
御伝鈔
12月5日 午後1時始め(結願日中)
伽 佗 稽首天人
嘆徳文
伽 佗 直入弥陀(
下高座
文類偈 草四句目下
念仏讚 淘 五
回 向 願以此功徳
御 文 御正忌(五帖目第十一通)
なお5日の午後、法話の後に「御浚えのお勤め」をします。そのお勤めの最後に、二帖目初通の「多屋内方」(御浚)の御文を拝読することになっています。〝信心〟と〝溝〟の比喩に感銘するとともに、溝を浚えて弥陀の法水を流す必要性を痛感。
(御浚えの御文) 抑 今度一七ヶ日、報恩講ノアヒダニヲイテ、多屋内方モソノホカノ人モ、大略信心ヲ決定シ給ヘルヨシキコエタリ。メデタク本望コレニスグべカラズ。サリナガラ、ソノママウチステ候ヘバ、信心モウセ候ベシ。細々ニ信心ノミゾヲサラヘテ、弥陀ノ法水ヲナガセトイヘル事アリゲニ候(後略)
宗祖親鸞聖人の毎月の御命日のお勤めでも、拝読する御文が指定されています。聖人が1262(弘長2)年11月28日90歳で入滅された後、親鸞教団では毎月28日に念仏聞法の会が催されていたとのこと。以後800年に垂んとする年月を経た今日も、私たちはこうした伝統を受け継ぎ伝えていかなければならないと思うや切であります。『大谷派儀式概要』には、親鸞聖人の御命日(毎月28日)のお勤め(晨朝)の差定(法要次第)は次のように定められています。
正信偈 中読
念仏讚 淘五三
和 讃 回り口 次第六首
回 向 世尊我一心
御 文 鸞聖人(三帖目第九通)。
なお、法要前日の二十七日には、逮夜のお勤めがあります。この逮夜法要の御文は、「聖人一流」(五帖目第十通)を拝読することになっています。こうした御命日等の法式作法は、本山や別院は別として、一般寺院やご門徒の家庭では、その伝統はかなり変節しているようです。当山に於いても例外ではなく、私の記憶の範囲内でもその変化は顕著なものがあります。ただ明治時代まではこういった法式作法が遵守されていました。
1867(慶応3)年生まれで97歳の生涯を閉じた祖母から聞いた話。1891(明治24)年10月28日早朝、激震が襲来。折しも親鸞聖人の御命日、本堂で家族そろっての晨朝法要の真っ最中。導師を勤める祖父はすぐさま内陣へ駆けあがり、輪灯の灯明とローソクの灯を消したとか。濃尾地震が発生したのです。公式記録によれば、発生時刻は午前6時38分50秒で、震源は岐阜県本巣郡根尾村(現・本巣市)。マグニチュードは8.0で死者は7,273人。日本史上最大の内陸直下型地震とのこと。本堂は大揺れに揺れたそうですが、倒壊は免れました。
大地震といえば、私も体験しました。一度ならず、二度も。国民学校2年生、9歳の時。半日授業を終えて帰宅し、宿題をやろうかと机に向かった時、ゆらゆらゆらと揺れたかと思ったら次の瞬間ドドーンと来て、グラグラと猛烈な揺れ。はじかれたように玄関から外へ。足が絡まってうまく走れず四つん這いに。辛うじて庭の真ん中まで辿り着くことができ、ヤレヤレ。本堂を見上げると、大屋根がギーギーと音を立てて大揺れ。来し方を見ると、高さ3m余の石灯籠が倒れていました。火袋はバラバラに。間一髪、あと1~2秒逃げ出すのが遅かったら…。
この大地震は1944(昭和19)年12月7日13時36分に発生した「東南海地震」。折しも太平洋戦争真っ只中、敵国に弱みを見せないためか、あるいは国民の戦意喪失を防ぐためか、新聞報道はごく限られた紙面で。加えて、翌12月8日は開戦記念日。新聞紙面は戦意高揚の記事で満杯。開戦の詔勅が出されたのは1941(昭和16)年12月8日。政府は、翌年1月8日を第一回とし、以後毎月8日を「大詔奉戴日」とすることを閣議決定。就中、12月は開戦記念の特別の奉戴日なので報道管制、さもありなん。
その5週間後の1945(昭和20)年1月13日またもや大地震。すぐ近くの三河湾を震源とする「三河地震」。払暁、エアハンマーで突き上げられるような衝撃で目が覚めると、次に襲ってきたのは大きな横揺れ。敵機の空襲に備えて服を着たまま巻き脚絆をして寝ていたため、即飛び起きて転がるように屋外へ。本堂は前回同様右に左にギーギーと大揺れ。でも、よく頑張って持ちこたえてくれました。しばらくすると近隣の人々が三々五々集まってきて「恐かったねー」と、みんな恐怖と寒さで震えが止まりません。
夜は白々と明け、黎明に照らし出された本堂を見上げると、大屋根の瓦が畳10畳ほどの広さでズレ落ちて、下地の赤土が露出していました。マグニチュードは6.8だったとか。ただ、救いだったのは集団疎開の学童が泊まっていなかったこと。前年の8月17日から、名古屋市南区の道徳国民学校の学童が当地に集団疎開。緒川国民学校で学習するとともに、数ヶ寺に分宿。当山は3年生数十名を受け入れ、学童は本堂で起居。しかし、12月の地震で本堂が大揺れに揺れ、余震も度々、危険を感じ他寺へ移住?しました。したがって、未明の三河地震で学童が混乱することは回避できました。
二度にわたる激震で、築120年(当時)の本堂、築150年(同)余の庫裡も倒壊は免れたものの傾きが残り、戸・障子の建付けが悪く、幅数㎝、高さ170㎝余の隙間が各所で発生。その長三角形の隙間を埋め木で応急処置。本堂はその後20年を経て大規模修理で建て起こしをし、庫裡は50年後の1996(平成8)年に建て替えをしてようやく問題解決に至りました。地震談議に脱線してしまいましたが、話を蓮如上人の『御文』に戻しましょう。
字指(栞)を入れるもう一つのケースは「回り口」。元旦にお勤めする「修正会」では、一帖目第一通の「或人イハク」を拝読することになっています。翌日は第二通「當流親鸞聖人ノ一義ハ」、翌々日は第三通「マヅ當流ノ信心ノヲモムキハ」というように、毎朝の勤行で順次繰り読みをします。読み終わった後に字指をセットしておけば、次回の拝読の御文がすぐ分かという寸法。この読み口が「回り口」。御文は五帖八十通、毎日拝読するとすれば、単純計算では2ヶ月半余で一巡することに。ただ、前述のように定められた御文があるので、多少ズレが生じることになろうかと。
合掌
2021/08/03 前住職 本田眞哉 記