法 話
(246)「蓮如上人(17)」
大府市S・E氏提供 |
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『本願ぼこり』
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今さらいうまでもなく、浄土真宗の開祖は親鸞聖人(1173~1262)。聖人入滅後、聖人の遺骨を京都・東山の大谷に納め、10年後の1272(文永9)年、聖人の末娘・覚信尼公があらたに廟堂を建立し「大谷本廟」と称しました。これが「本願寺」の嚆矢といわれています。そして、その本願寺の第二世は如信上人。如信上人は、親鸞聖人の次男とも三男とも…生没年も不詳の慈信房善鸞(上人)の子。すなわち親鸞聖人の孫で、祖父聖人の膝下で育てられたと伝えられています。その徳行は祖父聖人を彷彿とさせるものがあったとか。1280(弘安3)年、本願寺第二世の法統を継承。
ここでちょっと気がかりなのは、善鸞(上人)のこと。括弧書きで〝上人〟の尊称を付けたのは筆者の勝手。類例はあるものの稀のようです。何故かといえば、彼は親鸞聖人の長男とも三男ともいわれていますが、いずれにしても聖人のお子様には違いありません。しかし、聖人から教義上の問題で義絶されたことから尊崇の念が失われ、後世に至るまで尊称を付けない慣わしになったのかも。義絶されたのは1256(康元元)年、聖人84歳の時。義絶後の善鸞は巫道に走ったといわれているようです。
余談ながら、「巫道」とは如何? まずは「巫」。
『大漢語林』には、「みこ。かんなぎ。舞楽をして神がかりの状態になり、神意を知り、これを人に伝える女。もと、男女とも巫と言ったが、後に女を巫、男を覡と称した」とあります。当山境内隣地は「入海神社」。祭礼や年末年始には神楽太鼓と笛の音が聞こえ、拝殿では「おみこさん」が古式ゆかしい衣裳で舞いを奉献。子どものころの思い出ですが、当時は、綺麗だなと思うだけで、巫女さんが神意を知りこれを人に伝える〝超人〟の名残だとはつゆ知りませんでした。
話が脇道に逸れてしまいましたが本題に戻って、善鸞が父聖人から義絶されるに至った成り行きは?
ご存じのように聖人は35歳の時、念仏禁止で越後に流罪の身となられました(承元の法難:1207年)。そして4年後の1211(建暦元)年、流罪は赦免。折しも、師・法然上人の訃が伝えられたのを受けて帰郷の思いも萎えて、上野国佐貫に移りやがて常陸のくにへ。その後聖人は東国で教化に專念されましたが、善鸞も同道して聖人の教えを聴聞するとともに、教化活動を手助けされたと思われます。1234(文暦元)年ごろ聖人とともに帰洛。折しも、鎌倉幕府はまたもや念仏禁止令を発令(嘉禄の法難:1227年)。
このことが聖人の帰洛を促したのかも…。そうした状況下、善鸞は父聖人の膝もとで教学研鑽に励むとともに、教化の手助けもされたのではなかろうか、と。一方、聖人が去られた東国門侶の中で浄論が発生。何の浄論かといえば、もちろん教義・安心について。聖人は、そうした門侶達の動揺を鎮めるために、善鸞を彼の実子如信とともに東国へ派遣。しかし善鸞は〝邪義〟とされる「専修賢善」を信仰するように。この教義は、秘かに善鸞に伝授されたもので正当であり、善鸞自身は〝善知識〟すなわち生き仏である、と宣言。〝ミイラ取りがミイラになった〟の伝?
これを知った聖人は、1256(康元元)年5月29日付けの手紙を東国に送付。これが「善鸞義絶状」、もしくは「慈信房義絶状」。その後、善鸞は如信上人(後に本願寺第二世)と別れ、既述のように巫祝もしくは善知識として東国各地で布教活動?を続けたとか。その教えの中身は呪術的異教である〝隠し念仏〟。種々の秘密主義を持つ念仏信仰・民間信仰。真宗では〝異安心〟と呼ばれています。なお、前出の「専修賢善」ももちろん異安心。その説くところは、「念仏は数多く熱心に真面目に称えるほど功徳がある、また善業も浄土往生の手段になる」
※巫祝:神事をつかさどる者 かんなぎ
一方、「どんな悪事をはたらいても、念仏さえ数多く熱心に真面目に称えていれば、徳を多く積んだことになり浄土へ往生できる」と説く、いわゆる「造悪無碍」の異安心も現出。文字通り「悪を造ることに碍無し」。念仏一発、又は信心一発の後は既に往生浄土の要因が決定しているので、その後に犯す悪事は往生の妨げにならない、と主張。これももちろん異安心。この悪を造ることをはばからないという主張は、聖人の師・法然上人在世のころからあった模様。
比叡山延暦寺からの専修念仏停止の訴えに対し法然上人は、門弟が言行を正すことを誓って、1204(元久元)年『七箇条の起請文』を比叡山に送付。その第四条には次のような文言があります。
念仏門においては戒行なしと号し、専ら淫酒食肉を勧め、適ま律を守る者をば雑行人と名づけ、弥陀の本願を憑む者は造悪を恐るる勿れと説くを停止すべき事
このほかに6箇条、法然上人および門弟120人が言行を正すことを誓って連署。親鸞聖人も87番目に「僧綽空」の名で署名。
「造悪無碍」と表裏となるフレーズに「本願ぼこり」があります。『真宗新辞典』の本願ぼこりの項には、「本願にあまえ、つけあがること」と端的に説明。続けて、どのような悪業も往生のさまたげとはならず、悪人こそ本願の正機であるということを誤解して、思うままに悪事をしても救われるとする主張。聖人の門弟の中にもこうした見解が生じたのに対して、聖人は「往生にさはりなければとて、ひがごとをこのむべしとはさふらはず」(消息集)と戒めていらっしゃいます。さらに「くすりあり毒をこのめ、とさふらふらんことは、あるべくもさふらはずとおぼえさふらふ」(同)との訓戒も。
※ひがごと(僻事):道理や事実を曲げる過ちのこと。
あの『歎異抄』の第十三章に「本願ぼこり」の文言があります。
弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて往生かなうべからずということ。この条、本願を うたがう、善悪の宿業をこころえざるなり。よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわせられるも、悪業のはか らうゆえなり。(中略)
そのかみ邪見におちたるひとあって、悪をつくりたるものを、たすけんという願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいいて、ようようにあしざまなることのきこえそうらいしとき、御消息に、「くすりあればとて、毒を好むべからず」と、あそばされてそうろうはかの邪執をやめんがためなり。
【大意】阿弥陀さまの本願の不思議な力があるからといって、悪をおそれないのは「本願ぼこり」といって往生はかなわない、とする考え、これは本願を疑うことであり、過去につくった善悪の業を知らない。良い心が起こるのは過去の善業のもよおしにより、悪い事が起こるのは過去の悪業のはからいによるもの。(中略)
昔、間違った考えに取り付かれた人がいた。(本願が)悪事を犯した人を助けるということだから、わざわざ好んで悪事を犯し、それを往生の因とすべきだと説いた。様々なあしざま(悪し様)な事が惹起。このことを伝え聞いた聖人は、「薬があるからといって、好んで毒を飲んではいけません」と、そういった邪執を取り除こうと手紙を認められたとのこと。
※「薬」:阿弥陀如来の誓願を基とする親鸞聖人の悪人正機説
「毒」:悪事、特に〝本願ぼこり〟による造悪
親鸞聖人示寂後の本願寺第二世は如信上人。如信上人は聖人の孫、善鸞の子。第三世は覚如上人。さすが親鸞聖人の曽孫、5歳のころより修学の道に進み、内外の学を修めたとのこと。さらに、かつて聖人が教学的に対峙した南都(奈良)北嶺(比叡山)にも赴き〝ゆゆしき学匠〟たちに教えを受けました。一方、教団形成にも力を発揮し本願寺教団の礎を築かれました。親鸞聖人自身は〝開宗〟の意向はなかったので、浄土真宗の実質的開祖は覚如上人ということになりましょうか。著作も多く『報恩講式』『口伝鈔』『執持鈔』『最要鈔』『教行信証大意』等々。
以後、本願寺の留守職は第四世・善如上人、第五世・綽如上人、第六世・巧如上人、第七世・存如上人へと継承されます。その間、本願寺の教勢は衰退の一途を辿り、わずかに北陸での教線拡大に望みをかけるという状況。一方、同じく親鸞聖人の教えを受け継ぐ佛光寺は賑々しく繁栄していました。そうしたなか、我が本願寺の宗主は第八世蓮如上人へとバトンタッチ。1457(長禄元)年、第七世存如上人が62歳で還浄されたのを受けて本願寺第八代を継職した蓮如上人は、教線拡大と教化・教団改革に取り組み、みごと成果を上げ、後に〝中興の祖〟と呼ばれるようになりました。
合掌
2021/09/03 前住職 本田眞哉 記