法 話

(247)「蓮如上人(18)


 


大府市S・E氏提供




五帖御文(ごじょうおふみ)

 
 

 

前々号で記したところですが、本願寺第八世蓮如上人は、教化改革の一つとして『御文(おふみ)』を書かれました。『御文』とは、文字通り「文・手紙」。したがって、結びには「アナカシコ、アナカシコ」。その手紙の内容はといえば、暑中見舞いや同窓会開催の案内ではなく、宗祖親鸞聖人の本願念仏の教えや釋尊の教説。時代は1400年代後半、今から530年ほど前。初めての御文を書かれたのは1461(寛正2)年、上人47歳の時。本願寺第八世を継職されたのが43歳の時でしたから、本願寺のトップに就いて間もなく教化改革に着手されたということになりましょうか。

蓮如上人の六男・(れん)(じゅん)14681543)師が蓮如上人のことばを集めて著した『蓮淳記』の中に次のような記載があります。

      (前略)御文を御つくられさふらふ事は、安芸法眼申さふらひて御つくりさふらひて、各有難く存さふらふ。かるがると愚癡(ぐち)の者のはやく心得まひらせさふらふやうに、千の物を百に選び百の物を十に擇ばれ十の物を一に、早く聞分け申様にと思召され、御文をあそばしあらはされて、凡夫の速に佛道なる事を仰立られたる事にてさふらふ。開山聖人の御勧化(かんげ)今一天四海にひろまり申事は、蓮如上人の御念力によりたる事候也。

 【文意】愚かにして事理の分別がつかない凡夫の私たちが、仏の教えが分かるように千のものを百に、百のものを十に、十のものを一にして「御文」を書かれた、とのこと。そして、「御文」によって親鸞聖人の教えが、全世界にひろまることになったのは。蓮如上人の念力のお陰です。

 一方、『蓮如上人御一代(ごいちだい)記聞書(きききがき)の第五十二条には、

        『御文』のこと。「聖教(しょうぎょう)は、よみちがえもあり、こころえもゆかぬところもあり。『御文』はよみちがえもあるまじき」と、おおせられそうろう。御慈悲のきわまりなり。これをききながら、こころえゆかぬは、無宿前(むしゅくぜん)の機なり。

とあります。

 【文意】『御文』について蓮如上人は、「聖教は難解で、ややもすると読み違えることもあり、理解できないところもある。一方、『御文』は易しく書かれているので読み違えはないであろう。」とおっしゃいました。これほどまでに心を尽くしてくださった上人のお慈悲に対して納得できない人は、悲しいことだ、と。

※『蓮如上人御一代記聞書』:蓮如の言行を集録したもの。蓮如の人がらと思想をよく伝えている。筆写したのは実悟(蓮如の十男)の子顕悟か。(『真宗新辞典』〈抄〉)

※聖教:仏および伝統の先師古徳の言葉、または遺文・法語等。一宗の依りどころとする典籍(てんせき)。(『眞宗辭典』〈抄〉)

 当時(室町時代)の一般庶民の識字率がどれほどであったか定かではりませんが、漢文体の「(きょう)(ろん)(しゃく)」を読解できたのはほんの一握りの人たちではなかったでしょうか。そうした中、カナ交じり延べ書きの『御文』が世に出たことは驚天動地の出来事であったであろうことは想像に難くありません。ただ、識字率云々は別として、当時の人たちが『御文』に出会ったのと、私たちが『御文』に接するのとでは若干差があろうかと思います。私たちにとって『御文』はやはり古文で読みづらく、難解な部分もありますが。当時としては時機相応の仮名聖教となったことでしょう。

 また、『蓮如上人御一代記聞書』の第百二十五条には、次のような記述があります。

       蓮如上人、御病中に、慶聞(きょうもん)に、「何ぞ(もの)をよめ」と、仰せられ候う時、「『御文』をよみ申すべきか」と、申され候う。「さらば、よみ申せ」と、仰せられ候う。三通二度ずつ六返、よませられて、仰せられ候う。「わがつくりたる物なれども、殊勝なるよ」と、仰せられ、談ぜられ候う。

【文意】蓮如上人がご病気中、慶聞坊に「何かお聖教を呼んで聞かせてくれとおっしゃいました。そこで慶聞坊が「『御文』をお読みしましょうか」と申されたところ、上人は「それでは読んでくれ」とおっしゃいました。慶聞坊に三通の『御文』を二度ずつ、都合六度読ませられ、「自分が作った『御文』ではあるが尊く有り難いことだ」とおっしゃって、おそばの方々と語り合われました。

※慶聞坊(龍玄):本願寺蓮如の弟子。福井県報恩寺の開基。1520(永正17)年76歳で寂。(『眞宗辭典』〈抄〉)

 蓮如上人ご病気中84歳の時のことと(うかが)われます。85歳で入寂されたので、その前年。こんにち、85歳は取り立てていうほどの長寿ではありませんが、当時としては稀に見る長寿だったのではないでしょうか。平均寿命が何歳であったか知る由もありませんが…。そうそう、宗祖親鸞聖人は90歳で浄土へ往生されました。759年前のこと、凄い生命力。2020年の日本人の平均寿命は、女性が87.74歳、男性が81.64歳。私事ながら、筆者も蓮如上人入寂時と同じ満85歳。後は、親鸞聖人の90歳を目指して精進、精進!

ご門徒に発信した御文の総数は、真偽未確認のものを除いて221通が伝えられています。このうちの80通が『五帖御文』に集録されています。編集に携わったのは蓮如上人の後継、第九世・実如上人(14581525)とその第三子・円如上人(蓮如上人の孫)とされていいます。蓮如上人は自ら「御文」と称され、在世中既に「堺本」「道宗本」等があったとも。その後、「実如本」を基に第十世・証如上人(蓮如上人の孫)が『五帖御文』を開版。「御文」は〝本〟となって伝承され、親鸞聖人の教えがあまねく門徒衆に弘められていきました。

『五帖御文』の内訳は、記述年月日の明らかな御文を第一帖目から第四帖目に編纂。文明三年(1471)七月十五日から文明五年1473九月廿二日までの15通が第一帖目に、文明五年(1473)十二月八日から文明六年(1474)七月九日までの15通が第二帖目に収められています。文明六年(1474)七月十四から文明八年(1476)七月十八日までの13通は三帖目、文明九年(1478)正月八日から明応(1498)七年一月廿一までに書かれた15通は第四帖目にそれぞれ集録。合計58通。

発信年月日が書かれていない御文22通は第五帖目に集められています。第五帖目の御文は比較的短い文で、また親しみやすい文言が多く見受けられます。そうしたことから、門徒宅のお内仏にも第五帖目が常備されています。お内仏(仏壇)正面中段下に『御文』第五帖目一冊(大版)収納専用の引き出しが設けられているのが通例です。当山のご門徒で、第一帖目から第五帖目まで収納できる五段引出を備えた専用の「御文箱」に、五帖御文を収納してお内仏脇に据え置いていらっしゃるお宅もありますが、極稀。

こうした伝統が継承されていることは我が宗門の誇りであるとともに、先々へも伝えていかなければならないと思うや切。もちろん、御文は設えられているのみならず、読んで親鸞聖人の教えをこの身に戴くことに、その存在意義があることは言を俟ちません。因みに、御文を法要などで読む場合は声を出して読みます。一般的には声を出して読む場合は〝朗読〟といいますが、御文を読む場合は〝拝読〟。本堂での御文拝読については以前記したところですが、門徒宅での法要の際、お勤め終わって導師は正面の本尊に正対せず、膝をやや斜にして拝読するのが慣行となっています。お参りの方々は、(こうべ)を垂れて〝拝聴〟する慣わしですが、近年そうした姿を見かけなくなりました。

蛇足ながら、『五帖御文』が編集・開版された、15世紀後半から16世紀前半にかけての時代といえば、当山了願寺にとっては非常に意義深い時代。その訳はといえば、了願寺開創の時期と重なるのです。開創に関わる記録を紐解いてみますと、次のように記されています。(概略)

創建は明応三(1494)年ごろ。当時は天台宗(本山・比叡山延暦 寺)に属し「帰命寺」と号したとのこと。寺は海辺にあり、住職は良繁という僧でした。1508(永正5)年、三河の国は吉良の庄、東城の武士・村上千治直親が仏法に帰依して僧良範の弟子となり、良空と名告りました。良空は、1522(大永2)年住職となり、天台宗から浄土真宗に改宗。寺号も「了願寺」と改称。下って1588(天正16)年、寺基を海辺より現在地(海抜10メートルの海岸段丘上)に移転。

 以後了願寺は連綿と法灯を継承し、2021年の現在も同地に寺域を構え、本堂はじめ諸堂宇の甍が青天に映えています。初代良空法師より数えて筆者・前住職が第十六代、現住職が第十七代。これからも法灯伝承に信心のまことを尽くしていかなければならないと心に誓いつつ、合掌。

 

2021/10/03  前住職 本田眞哉 記

 

 

                                                 

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