法 話
(248)「蓮如上人(19)」
![]() 大府市S・E氏提供 |
|
『
|
『御文』といえば蓮如上人、蓮如上人といえば『御文』。親鸞聖人の教えを易しくかみ砕いて、カナ交じり文で門徒衆に書き与えた法語、それが『御文』。まさに〝金言〟。時は室町時代、それまでにない〝新案特許〟の教化方式は仏教界に衝撃をもたらしたことでしょう。いまさらいうまでもなく「文」は手紙のこと。上人自身も生前、自ら説かれる聖人の教えを認めた手紙を「御文」と称して集録するご意図があったと窺われます。実際には上人滅後、上人後継の本願寺第九世・実如上人と息男・円如上人が集録に携わったといわれています。
『御文』の集録・編集につきましては前号等で既述していますが、今一度ここで再確認をしてみたいと思います。まずその総数は、真偽未決のものを除いて252通といわれています。この内、記述年月日の明らかな御文58通を、一帖目から四帖目に編纂。詳しくは、文明三年(1471)七月十五日から明応(1498)七年一月廿一までに書かれた御文。一方、記述年月日の分からない御文22通は、五帖目に集録されています。五帖に集録されなかった御文170余通は「帖外御文」。その一通目に「筆始めの御文」と呼ばれる御文があります。
当流上人の御勧化の信心の一途は、つみの軽重をいはず、また妄念 妄執のこころのやまぬなんどいふ機のあつかひをさしおきて、ただ在家止住のやからは、一向にもろもろの雑行雑修のわろき執心をすてて弥陀如来の悲願に帰し、一心にうたがいなくたのむこころの一念をこるとき、すみやかに弥陀如来光明をはなちて、そのひとを摂取したまふなり。これすなはち仏のかたよりたすけましますこころなり。またこれを信心を如来よりあたへたまふといふもこのこころなり。
さればこのうへには、たとひ名号をとなふるとも、仏たすけたまへ とはおもふべかず。ただ弥陀をたのむこころの一念の信心によりて、やすく御たすけあることの、かたじけなさのあまり、如来の御たすけありたるご恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべきなり。これまことの専修念仏の行者なり。これまた当流にたつるところの一念発起平生業成とまうすもこのこころなり。あなかしこ、あなかしこ。
寛正二年三月 日
【要旨】親鸞聖人のお導きくださる信心の途とは、罪深き身であろうとも、妄執に取り付かれた人であろうとも、はたまた仏道修行の出家をしない在家の人も、疑いなく阿弥陀如来を一心に頼む心が起これば、お助けに与ることができる。そのうえは、御恩報謝の念仏を称えなさい。
寛正二(1461)年といえば上人47歳。一帖目の第一通の文明三年(1471)より10年前のこと。金森の道西(1399~1488)の請いによって書かれたと伝えられています。以後、85歳で入寂される前年まで37年間にわたり御文を書き続けられたのです。因みに道西とは、上人の高弟。蓮如上人の六男・蓮淳師が蓮如上人の言葉を集めた『蓮淳記』には
近江の金森の道西と申せし人は後には従善と申候。此人細々大谷殿へまひられ、仏法者にてさふらひつるが、或る時存如上人(蓮如上人の父)の御前にこの従善伺公せられ侍る時、蓮如上人御招さふらひて召寄られ、御物語どもさふらひつる。(以下略)
※御物語どもさふらひつる:凡部の仏になる道を懇ろに道西に物 語られた
さて、話を『五帖御文』に戻しまして、日常的に拝読する御文はほぼ五帖目。自坊での大きな法要では規定の御文を拝読。平日の勤行では、元旦に拝読する一帖目第一通の「或人イハク」の後を受け、以後第二通から逐日「回り口」の御文を拝読します。門徒宅での年回法要や、寺での年回法要等の場合は特に定めはなく、五帖目の中から適宜撰んで拝読します。したがって、日常的には拝読する御文はほぼ五帖目で、一帖目から四帖目の御文を拝読することは殆どありません。
最も長い御文は四帖目の第八通。四帖目の中で16ページを占めています。一方、最も短いのは五帖目第十通でわずか1ページ半。概して、一帖目~四帖目は長文が多く、五帖目には短文が多く集録されています。そうしたことから、五帖目の御文は、一般的に親しみをもって拝聴されているようです。就中、第一通の「末代无智」の御文と第十通「聖人一流」、いずれも1ページ半ほどで、所要時間は1分半弱。特に「末代无智」の御文は、お内仏に常備されている五帖目の巻頭ということもあり、格別ポピュラー。
末代无智ノ、在家止住ノ男女タラン輩ハ、ココロヲヒトツニシテ、阿弥陀仏ヲフカクタノミマイラセテ、サラニ余ノカタヘココロヲフラズ、一心一向ニ仏タスケタマへトマウサン衆生ヲバ、タトヒ罪業ハ深重ナリトモ、カナラズ弥陀如来ハスクヒマシマスベシ。コレスナハチ第十八ノ念仏往生ノ誓願ノココロナリ。カクノゴトク決定シテノウヘニハ、子テモサメテモ、イノチノアランカギリハ、称名念仏スベキモノナリ。アナカシコ、アナカシコ。
【要旨】末代の世の智恵のない在家生活者は、男性も女性も心を一つにして、阿弥陀仏を深くたのみ、他の仏菩薩に心を向けない方がよろしい。そうすれば、たとえ罪深くとも弥陀如来は必ずお救いくださいます。これが第十八願の念仏往生の誓願の心なのです。このようにして信心決定したうえは、命のある限り報謝の念仏をすべきです。
なお、「末代」というのは、「末法の時代」の意。末法は、正法・像法・末法の三時の一。諸説ありますが、釋尊が入滅されてから五百年を正法の時代、その後一千年年を像法の時代、更にその後一万年を末法の時代とするのが一般的のようです。正法の時代には、釋尊の教えがあり、行じる人がいて、証りを得る者(覚者)がいる。即ち、教・行・証が具現された時期。像法時には、証りを得る者はいないが教と行は存在し正法時に似た時期。末法時は教のみがあって、行と証の欠けた時期。日本では、1052(永承7)年末法の時代に入ったといわれています。
1052(永承7)年といえば平安時代末期、浄土教極楽思想の象徴ともいえる宇治・平等院の鳳凰堂が道長によって建立された前年。貴族の摂関政治が行き詰まり院政へと向かう時代で、治安の乱れも激しく世情不安も増大しつつあったようです。一方、仏教界では比叡山の僧兵が横暴を極め、人心の不安をかき立て、まさに「末法法滅」(末法灯明記)の到来が現実味を帯びてきました。こうした状況が、皮肉にも末法到来の自覚を促し、浄土教への関心を高めろという逆縁になったのではないでしょうか。
川瀬和敬先生は『正像末法和讃講話』の中で次のように述べていらっしゃいます。
(前略)大体聖人以外は、末法ということが、人間の下降だけを意味して、時代が衰弱した、時代が悪くなった、人心がとげとげしくなった、信頼すべき人間がなくなってしまった。このように末法というものは時代が衰弱し、人間の本来姓がだんだん失われていく受け止めしかしかできないのでありますが、聖人はそのどん底で一つ転換してこられるのです。聖人においては、末法五濁の世というものに対して痛切なる悲しみをお持ちになっておりますけれども、如来の本願に遇いたてまつってみれば、如来の本願に遇いたてまつることができたのは、末法に生まれたからであるとの転換がある。末法になったというと、何もかも光が失われていったように思うのですけれども、如来の本願に遇いたてまつることができてみれば、末法に生まれたことがかたじけないではないかという大いなる転換があるのです。
おっしゃるとおりだと思います。まさにパラドックス。〝世も末じゃ〟というマイナスイメージの中、だからこそ易行道の救いの教えが求められる、浄土教にとってはチャンス到来、といったら不謹慎とお叱りを受けるかも…。末法の世では、難行苦行の道を志す人も少なく、ましてやその証果を得る行者は望むべくもありますまい。釋尊入滅(B.C.463/560/624)後、正法五百年、像法千年を経てA.D.1052年末法の時代に。その後百年余を経て1173年、末法時代のど真ん中に生を享けられた親鸞聖人、波瀾万丈の人生がスタートしました。
合掌
2021/11/03 前住職 本田眞哉 記