法 話
(25)「報恩行」E
会期中にこの共同展のテーマ─Living Together─「日米イメージの交流」を中心にシンポジウムが開かれました。そのなかで名古屋造形大学の池田洋子先生は、インスタレーションは一過性のもので、この類のものは日本でも古くからあると指摘。かの有名な大原の大茶会では、寺の高欄を金襴の布で包んだり、桜の木の根元に瓶を置いて、あたかも瓶植の桜の木のように見せかけたりしたとか。インスタレーションは言い換えれば「しつらえ」だ、とおっしゃっていました。なるほど。
ということならば、インスタレーションはもっと身近にあります。それは真宗の荘厳作法。例えば、報恩講をお勤めする場合、まず本堂の内陣を掃除し、平生とは異なった「しつらえ」をします。前卓には水引と打ち敷きを掛け、上卓にも打ち敷き。中尊前内陣には登高座の儀式のための礼盤・磬台等の法具を設置。前卓の三具足を五具足に改め、輪灯の上には瓔珞を吊ります。そして余間には平生の掛け軸を外して親鸞聖人の「絵伝」四幅を掛け、その前に『御伝鈔』を赤い卓に載せて設置します。
これらの荘厳は法要期間中のみで、終われば直ちに撤去して平生に戻すのが真宗大谷派の作法。この「しつらえ」はまさにインスタレーションじゃないでしょうか。降幡先生のレクチャの主旨と軌を一にするものといえましょう。そして一般家庭でこうした「しつらえ」の習わしがだんだん薄れつつあることも事実で、ここでも日本の伝統が失われていくことを嘆かざるを得ない状況にあるのです。その一因として、先生は日本の建築様式の西欧化を指摘していらっしゃいました。
また、子どもたちの問題行動、果ては犯罪に至る状況の根元にも日本の伝統軽視、家屋構造の効率化が影響しているとも。子どもたちが育つ過程において、人間を超えた大きな力、怖いものが教えられていない。最近の家の中には暗いところがない、お仏壇がないという例が多い。
昔は親にしかられて押入に入れられたとか、夜外の便所へ行くのが怖いとか。今の子どもたちは、そうした経験をすることは皆無といってよい。目に見えない存在の怖さはない、怖いのは人間であり、したがって怖い人間が見ていないところなら悪いことをしてもかまわない、ということになり犯罪の増加の一つの要因になっているという見解も示されました。
一方、古材リサイクルの問題については、折しも「建築リサイクル法」がしこうさればかりであり非常にタイムリーなレクチャとなりました。今、建築業界では建築廃材をいかに少なくするかが大きな課題となっております。聞くところによれば、解体作業も廃棄とリサイクルのための分別や処分場でのコストなどに配慮しつつ進めなければならず、手間と時間と費用が大変かかるため、一工夫も二工夫も必要だとか。
そうした意味においても今回の降幡先生のレクチャは大変有意義のものでありました。御遠忌委員をはじめ、元請け・下請けの業者の方々約40名が熱心に講話を拝聴しました。
【2003.4.1.住職・本田眞哉・記】