法 話

(251)「蓮如上人(21)」


 


大府市S・E氏提供  

 

白骨(はっこつ)()(ふみ)

 

 蓮如上人が〝開発〟された真宗の教えを人々に弘める教化伝道のアイテムは『御文』。優しい言葉で(したた)めた手紙形式で、親鸞聖人の教えを門徒の皆さんに伝えられたのが御文。上人は47歳から84歳に至るまでの37年余にわたり御文を書き続けられました。既述のようにその総数は252通。この内、認められた年月日の明らかな御文58通を一帖目(いちじょうめ)から四帖目に編纂。一方、記述年月日の分からない御文22通は五帖目に集録されています。五帖目の御文は、文章が短く比較的易しい文言で記されていますので、親しみやすく一般にも普遍化してます。その筆頭は、聴く人の心に響く一通「白骨の御文」ではないでしょうか

 そうそう、思い出しました。高校時代、今から六十数年前のこと。日本史の授業の中で「白骨の御文」の話が出たような、なかすかな記憶が蘇ってきました。古い本箱をひっくり返して探したところ、ありました。教学社刊『精選・日本史資料』-東京都歴史教育研究会編-。「第2章 前期封建社会」の中に「22 蓮如の御文」の見出し。「〔解説〕蓮如は諸国の門徒に対して、平易な文章による手紙を送って、正しい他力信仰を教えた。次の史料はその一つとされる。本願寺教団発展の一因をみることができる。」の前文に続いて「白骨の御文」のカタカナ交じりの原文が掲載されています。

       (それ) 人間ノ浮生(ふしょう)ナル(そう)ヲツラツラ観ズルニ、オホヨソハカナキモノハ、コノ世ノ始中(しちゅう)(じゅう)マボロシノゴトクナル一期(いちご)ナリ。サレバイマダ万歳(まんざい)人身(にんじん)ヲウケタリトイフ事ヲキカズ、一生スギヤスシ。イマニイタリテタレカ百年ノ形躰(ぎょうたい)ヲタモツベキヤ。我ヤサキ人ヤサキ、ケフトモシラズアストモシラズ、ヲクレサキダツ人ハ、モトノシヅクスヱノ露ヨリモシゲシトイヘリ。サレバ(あした)ニハ紅顔(こうがん)アリテ、(ゆうべ)ニハ白骨(はっこつ)トナレル身ナリ。スデニ无常(むじょう)ノ風キタリヌレバ、スナハチフタツノマナコタチマチニトヂ、ヒトツノイキ ナガクタエヌレバ、紅顔ムナシク變ジテ、(とう)()ノヨソホヒヲウシナヒヌルトキハ、六親(ろくしん)眷属(けんぞく)アツマリテナゲキカナシメドモ、更ニソノ甲斐アルベカラズ。サテシモアルベキ事ナラ子バトテ、野外(やがい)ニヲクリテ 夜半(よは)ノケムリトナシハテヌレバ、タダ白骨ノミゾノコレリ。アハレトイフモ中々ヲロカナリ。サレバ人間ノハカナキ事ハ老少不定(ろうしょうふじょう)ノサカヒナレバ、タレノ人モハヤク後生(ごしょう)ノ一大事ヲ心ニカケテ、阿弥陀仏(あみだぶつ)ヲフカクタノミマイラセテ、念仏マウスベキモノナリ。アナカシコ、アナカシコ。  

     ※ルビ:筆者

【要旨】人間の定まりのない有様をつくづく観てみると、はかないものはこの世の始・中・終、幻の如き一生涯です。人間が一万歳生きたということは、未だかつて聞いたことがありません。一生は過ぎやすいもの。釋尊入滅後遠く年月を経た末の世の今、いったい誰が百年の命を保ち続けることができましょうか。我が先、人が先、今日とも知らず、明日とも知らず、人に遅れ、人に先立ち、草木の根元に雫が滴るよりも、葉先の露が散りゆくよりも繁く、人は死んで行くものであるといわれています。それゆえ、朝には血気盛んな色の顔があっても夕べには白骨となる身であります。今にも無常の風が吹いてきたら、二つの眼はたちまちに閉じ、一つの息は永遠に途絶えてしまいます。顔は、(もも)(すもも)のような美しい姿を失ってしまいます。そうした時には、家族親族が集まって嘆き悲しんでも、さらさらその甲斐はありません。そのままうち捨て置くわけにもいかないと、野辺に送り火葬し夜半の煙となってしまえば、ただ白骨が残るばかりです。哀れといっても言い尽くせません。人間の(はかな)いことは老・少定まりがないので、どの人もはやく来世で弥陀に救われ、浄土に往生することを心にとどめ、阿弥陀仏を深くお頼み申し上げて、念仏するべきでしょう。あなかしこ あなかしこ。

「白骨の御文」とは、その名のとおり、人が「骨」になったことを縁として教えに遇う御文。(かん)(こつ)勤行(ごんぎょう)の折に拝読するのが通例で、最も相応しいタイミング。ところで「還骨勤行」とは?とのお尋ねのムキもおありかと。ここで一連の葬儀執行の次第について触れておきましょう。現今の葬儀式の次第は、以前に比べれば簡略化されました。因みに当山では、ご門徒からの訃報を受けて先ず枕経(枕直し勤行)に参じます。仏前で読経・おかみそり(剃髪の儀)の後、葬儀式の式場・日程等について葬儀社を交えて打ち合わせ。近ごろ自宅葬はほぼ皆無で、式場は概ね葬儀会館や公共斎場。

そうした式場で、定められた時刻に葬送の儀式を執り行います。式次第は、棺前勤行・葬場勤行・灰葬勤行(本来は火葬場で行う)。一連の告別式を終えて出棺。遺骸は公共の火葬場に運ばれ荼毘に付されます。そして出棺後2時間余、余熱冷めやらぬお骨を親族・縁者が拾骨。夫・妻・父・母・祖父・祖母、或いは子・孫の遺骨を拾って骨壺・骨箱に収め、胸に抱く心境はいかばかりか…。かくしてお骨は、式場あるいは住み慣れた我が家へとお還りになります。ほどなく「還骨勤行」。

余談ながら、この還骨勤行のことを「初七日法要」と呼ぶ慣わしがあります。当地方においても例外ではありませんが、端的にいってこれは間違い。「初七日」は、あくまでも命終の日から数えて七日目の忌日。その忌日にお勤めするのが本来の初七日法要。以後、二七日・三七日・四七日・立日(初月忌)・五七日・六七日と中陰(ちゅういん)(忌中)のお勤めをします。そして七七日・四十九日の忌明(満中陰)法要で中陰が明けます。

 遡って、戦前の葬儀は実に大がかりなものでした。隣組の夫婦がそろってお手伝い。自宅葬の為の準備や弔問者の接待で大童。特に弔問者の接待。隣家の居室を借り受け、大広間の座卓に膳椀をセット。出棺後会葬者にお(とき)(食事)を呈上するためです。人数は数十人。時には二交代のことも。食材の調達から調理に至るまで葬家は一切関わらず近隣の人たちが全てを取り仕切る慣わし。そうした労に謝意を込めて、近隣の方々に初七日法要にお参り戴き、葬家がおもてなしをする慣わしが、式当日の還骨勤行時に繰り上がってその名が残ったのでしょう。

 話が初七日法要のオリジンで道草してしまいましたが、還骨勤行に戻しましょう。「還骨勤行」とは,文字通りお骨がお還りになったお勤め。仏前に荘厳された中陰壇にお骨を安置して開式。先ず伽陀(かだ)諷誦(ふうじゅ)・表白、次に『佛説阿彌陀經』を読誦(どくじゅ)、読経中に参会者焼香。続いて、『正信偈(しょうしんげ)』念仏『和讃(わさん)』廻向を「同朋奉讃式」で唱和。最後に『白骨の御文』を拝読。拝読しつつ、上人が御文を書かれた500年前も現代も、人が死することには何の変わりもなく、厳然たる事実として身に迫り来ることを改めて感じる次第。御文の拝読を終えて最後に法話。御文の中のフレーズを交えて、故人の人柄や業績などにも触れ「往生浄土」のお話をします。

 愛しい人、可愛い子、はたまた一家の柱として頼りにしてきた人のお骨を前に拝聴した白骨の御文の一言ひとことが心の琴線に触れ、こみ上げるものを感じられたのではないでしょうか。ここで改めてこの御文のテーマは何かといえば、「無常」だと思います。「常ならず」。ところが問題は「常」とは何ぞや、どういう状況が「常」なのか、ということ。「常」とは、言い換えれば「あたりまえ」ということではないでしょうか。朝目が覚めるのはあたりまえ、朝食を摂るのもあたりまえ、急いで車に乗って出かけられるるのもあたりまえ。

 私たちは、何の不思議もなくこうした日暮らしをしています。しかし、この「常・あたりまえ」が崩れるとパニックに陥ります。〝こんな筈じゃなかった〟と嘆き節。最愛の夫の死を目の当たりにして、「あんな元気な人が死ぬなんて信じられない」と、嘆く奥さん。よく耳にするところですが、元気でいることが「常」で、死ぬのはまさに「無常」。その根本にあるのは、全てが「あたりまえ」との想い込み、まさに「妄想」なのです。死なないと考える妄想が、死という事実、厳粛なる事実によって否定されるのです。「無常」なる事実に触れることによって、死も「常」だというところに立てるようになれるのだとお教え戴くのです。

 白骨の御文の中には「浮生ナル相」「マボロシノゴトクナル一期(いちご)」「无常(むじょう)ノ風キタリヌレバ」というキーワードがあります。他の御文にも「電光(でんこう)朝露(ちょうろ)」「アダナル人間界」等の言葉が使われています。上人の仰せは、常であるという私たちの思いを、つまり妄想を破りなさいと。老も病もまだまだ私には無縁だと考える妄想に取り付かれている自分。年は取っても若い者には負けん、丈夫で体力もある、との妄想。しかし、急病で倒れると「こんな筈じゃなかった」。「無常」の事実に直面して、「常」の想いが破られ、正しく事実を見つめる立場に立つことができ、はじめて病を引き受けることができるようになるのでしょう。

合掌

2022/02/03  前住職 本田眞哉 記

                                                  

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