法 話
(252)「蓮如上人(22)」
大府市S・E氏提供 |
『異端の戒め』
宗教・宗派にとって「異義」「異端」は付きもの、といっても過言ではありますまい。わが本願寺教団においても、例外なく異義・異端・異安心問題が発生しました。親鸞聖人のご在世中にもすでにその兆しがあり、『歎異抄』というかたちで後世に伝えられています。『歎異抄』は、文字通り異義・異端を嘆いて顕された文言集といったらよろしいか。編著者は、親鸞聖人の直弟子の唯円とされています。一見軽妙なタッチで書かれているように見えますが、内容は深遠。歎異抄については、大きく重いテーマですので後刻改めて触れることとして、今回は『御文』の中の異義・異端・異安心問題にについて考えてみましょう。
御文の一帖目第十一通(文明五年九月中旬発信)には次のような記述があります。
ソレオモンミレバ、人間ハタダ電光朝露ノユメマボロシノアヒダノタノシミゾカシ。タトヒマタ、栄華栄耀ニフケリテ オモフサマノコトナリトイフトモ、ソレハタダ五十年乃至百年ノウチノコトナリ。モシタダイマモ無常ノカゼキタリテサソヒナバ、イカナル病苦ニアヒテカ、ムナシクナリナンヤ。マコトニ死セントキハ、カネテタノミオキツル妻子モ財宝モ、ワガ身ニハヒトツモ、アヒソフコトアルベカラズ。サレバ死出ノ山路ノスヱ、三塗ノ大河ヺバタダヒトリコソユキナンズレ。コレニヨリテタダフカク子ガフベキハ後生ナリ、マタタノムベキハ弥陀如来ナリ。信心決定シテマイルベキハ、安養ノ浄土ナリトオモフベキナリ。
コレニツイテチカゴロハ、コノ方ノ念仏者ノ坊主達、仏法ノ次第モッテノホカ相違ス。ソノユヘハ門徒ノカタヨリモノヲトルヲヨキ弟子トイヒ、コレヲ信心ノヒトトイヘリ。コレオホキナルアヤマリナリ。マタ弟子ハ、坊主ニモノヲダニモオホクマイラセバ、ワガチカラカナハズトモ、坊主ノチカラニテタスカルベキヤウニオモヘリ。コレモアヤマリナリ。カクノゴトク坊主ト門徒ノアヒダニヲイテ、サラニ当流ノ信心ノココロヱノ分ハヒトツモナシ。マコトニアサマシヤ師弟子トモニ、極樂ニハ往生セズシテ、ムナシク地獄ニオチンコトハウタガヒナシ。ナゲキテモナヲアマリアリ、カナシミテモナヲフカクカナシムベシ。(後略)
【要旨】さて考えてみると、人間というものは、稲光や朝露のような夢幻の間の楽しみではないでしょうか。たとい栄華栄耀に浸っても人生は50年~100年、無常の風来たりなばいかなる病苦災難にあいてかむなしくご臨終。日頃頼みにしていた妻や財宝も付き添うことはできません。死出の山路も三途の川越も我が身一つ。願うべきは後生のこと、頼むべきは弥陀如来。信心決定して参るべきは安養浄土と思うべきです。
こうしたなか、近ごろはこの地の当流の坊主たちの仏法に対する心得が大分間違っています。何故かといえば、門徒より施物を受け取るものをよい弟子とし、信心の人としています。これは大変な誤りです。また弟子は、坊主に沢山施物すれば、自分の力ではできなくても坊主の力で助かるように思ってしまう、これも誤りです。このように坊主と門徒の間において当流の信心の心得はゼロであります。まことに情けないこと。師も弟子も、極楽には往生せず、地獄に落ちることは疑いなし。嘆きてもなお余りある次第です。(後略)
ここで上人が戒めているのは〝物取り信心=施物だのみ信心〟。坊主たちは、自分に物を捧げる門徒は信心の有無に拘わらず、よい弟子であり信心の人である、としている。門徒はますます多くの貢ぎ物を坊主に捧げようとする。物さえ多く納めれば、信心が足りなくても坊主の力で往生が叶うとなれば、門徒は施物頼みに走ることになりましょう。一方、坊主の方としても、たとえ異端といわれようとも、この物取り信心の旨味を手放すわけにはいかなかったと思われます。
この〝物取り信心=施物だのみ信心〟の背景には、坊主が門徒の往生与奪の権限を握るという、歪曲論理がおのずと働いているのではないでしょうか。となると、各地に展開する本願寺の寺々の坊主が阿弥陀仏と同じ済度の力を持つということになり、異端の極み。こうした施物だのみの異端は、屋上屋を重ねて更なる異端を派生することに。それは門徒の私有化という異端。出精して施物を運んだ門徒を〝わが弟子〟と囲い込む結果を招くことになります。こうした異端について、御文一帖目第一通(文明三年七月十五日発信)では、問答形式で次のように戒めの言葉を認められています。
或ル人イハク。当流ノココロハ、門徒ヲバカナラズワガ弟子トココロエオクベク候ヤラン、如来聖人ノ御弟子トマウスベク候ヤラン。ソノ分別ヲ存知セズ候。マタ、在々所々ニ、小門徒ヲモチテ候ヲモ、コノアヒダハ
手次ノ坊主ニハ、アヒカクシヲキ候ヤウニ 心中ヲモチテ候。コレモシカルベクモナキヨシ、人ノマウサレ候アヒダ、オナジクコレモ不審千万ニ候。御子ンゴロニウケタマハリタク候。(中略)
故聖人ノオホセニハ、親鸞ハ弟子一人モモタズトコソ、オホセラレ候ヒツレ。ソノユヘハ、如来ノ教法ヲ、十方衆生ニトキキカシムルトキハ、タダ如来の御代官ヲマウシツルバカリナリ。サラニ親鸞メヅラシキ法ヲモヒロメズ、如来ノ教法ヲワレモ信ジ、ヒトニモヲシヘキカシムルバカリナリ。ソノホカハナニヲヲシヘテ弟子トイハンゾト、オホセラレツルナリ。サレバ
トモ同行ナルベキモノナリ。コレニヨリテ、聖人ハ御同朋御同行トコソカシヅキテオホセラレケリ。(後略)
【要旨】或る人が尋ねました。当流においては、坊主は門徒をわが弟子と考えてよろしいでしょうか、それとも如来や親鸞聖人の御弟子というべきでしょうか。その判断ができません。また、地方の道場で僅かな門徒がいるも、近ごろは手次ぎ寺の坊主に隠しているようですが、それはそれでよい、とおっしゃる向きもあります。このことも同様によく分かりません。これらのことを詳しく教えてください。(中略)
今は亡き親鸞聖人は「親鸞は弟子を一人も持っておりません」(『歎異抄』)と仰せられました。「なぜならば、阿弥陀如来の教えを十方の衆生に説いて聞かせるときは、ただ如来の代官をお務めしているに過ぎません。決して親鸞は目新しい法を弘めているのではありません。如来の教えを私も信じ、人々にもお聞かせするばかりです。その他に何を教えたからといって我が弟子といえましょうか」と仰せられました。したがって、皆(師弟ではなく)同じ友人・仲間ということなのです。こうしたことから聖人は、御同行・御同朋と敬いをもっておっしゃったのです。
さて、ここでいささか視点を変えて「御同行・御同朋」に注目することとしましょう。教団の歩みの中で、蓮如上人御若年の砌には、佛光寺の繁栄に対して本願寺教団が衰微し、危機的状況にあったことは既に記したところですが、昭和30年代にも危機感を持った時期がありました。高度経済成長の中、人生の価値観も変わり〝消費は美徳〟とか〝三種の神器〟とかのフレーズが飛び交いました。そうしたなか、人口の流動も激しく、社会の構造は目まぐるしく変化。寺院を取り巻く環境も激変。しかし、伝統を重んじる寺院サイドでは対応に苦慮。加えて、新興宗教が勢力を増し、門徒を〝折伏〟するケースも出現。
そうした時代背景のもと1962(昭和37)年、宗門改革をめざして「同朋会運動」がスタート。「同朋社会の顕現」をテーマとした信仰改革を通して、人間社会と如来の社会との関係性を追求することによって、教団という組織の改革にも資するという高邁な信仰運動。この運動の淵源はといえば、1956(昭和31)年、宮谷法含宗務象徴が発した「宗門白書」。当時の教団の混迷がどこにあるかについて、白書には「仏道を求める真剣さを失い、如来の教法を自他に明らかにする本務に、あまりにも怠慢である」との懺悔と厳しい自己批判。ここに同朋会運動の胎動が始まったのです。 to be continued
合掌
2022/03/03 前住職 本田眞哉 記