法 話

(253)「蓮如上人(23)


 


大府市S・E氏提供  

 

『同朋精神』

 

蓮如上人は、『御文』一帖目第一通に「聖人ハ御同朋(おんどうぼう)御同行(おんどうぎょう)トコソカシヅキテオホセラレケリ」と(したた)めていらっしゃいます。この御同朋御同行のフレーズはいうまでもなく親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)のオリジナル。「同朋」「同行」という標題あるいは文言が記された著作や文章があれば、それは親鸞聖人の教えに関わりがあるものと断じてもよろしいかと。さらに、その流れを汲む真宗門徒の組織・教化・事業・法要式などにもそうしたものが用いられてきました。例えば、当山のご門徒の組織は、現在も「○○同行」といった呼称が使われています。同行の組織11組で構成されています。

1939(昭和14)年18日に勤修(ごんしゅ)した当山報恩講の記録によりますと、掛かった費用が合計四拾四圓弐拾銭。各組の分担金として、拾弐円拾六銭下切同行・拾壱円六拾銭神組同行・拾壱円六拾銭新町同行etc.と記載されています。また、昭和二十三年七月の「本堂疊表替寄附金」では、金壹万壹阡六百五拾圓神市場同行・金壹万参阡八拾五圓下切同行・金参阡圓刈谷同行・・・・計金四万九阡七百六拾五圓との記載も。他にも「同行中ヨリノ集金」とか「坊守忌明法要同行(もち)」の記述があり、寺院行事費の一部を同行が負担したことを物語っています。

一方、「同朋」はといえば、蓮如上人の教化(きょうか)実践活動の中にその精神が結実しています。既述のように本願寺教団は、第五世・第六世・第七世の時代は(すい)()の極にありました。そうした教団の再生に心血を注がれたのが蓮如上人。門徒一人一人と膝を交えて仏法を談じ、草鞋(わらじ)()いて草の根の教化伝道。そして究極の教化アイテム『御文(おふみ)』の発案等々。因みに、教化とは? 『デジタル大辞泉』によれば「人々を教え導いて仏道に入らせること」とあります。まさに上から目線。上人の教化伝導は()(あら)ず。ご門徒ともども道を求め、教えを聞き開き、信心を獲得(ぎゃくとく)しようとされたのが上人の取り組み。まさに同朋精神そのもの。上人のこうした同朋精神の実践のもと、東本願寺教団は過去三代で失われた同朋精神を回復し、蘇ったのです。

1499(明応8)年蓮如上人は八十五歳で示寂(じじゃく)されましたが、その前後本願寺教団ではハード面での紆余曲折がありました。例えば上人は、真宗再興の象徴ともいえる山科(やましな)本願寺を1480(文明12)年に建立(こんりゅう)1497(明応6)年には大坂石山に石山本願寺の坊舎を建てました。ところが、1580(天正8)年に信長との石山合戦によって石山本願寺の堂宇は焼失。一方、豊臣秀吉は政権掌握直後の1585(天正13)年、大坂天満の土地を本願寺に寄進。さらに1591(天正19)年、本願寺が京都に移転するに当たり、京都七条堀川に寺地(現在の西本願寺の地)を寄附。

1573(元亀4)年に始まった安土・桃山時代(織豊政権)は1598(慶長3)年に終焉を迎えます。1600(慶長5)年はご存知「関ヶ原の戦い」。戦いに大勝した徳川家康は征夷大将軍に任官し1603(慶長8)年、江戸に徳川幕府(江戸幕府)を開幕。〝徳川三百年〟の始まり。徳川家康は、諸事多端な開幕直前の1602(慶長7)年、意外にも本願寺第十二世教如(きょうにょ)上人に京都烏丸六条の土地を寄進。これが現在の東本願寺の寺域。(さかのぼ)って、教如上人は本願寺十一世顕如(けんにょ)上人の長男として出生。本願寺教団では関ヶ原以前から、十二世法主候補について三男・准如(じゅんにょ)上人一派と教如上人一派の分裂があったとか。一旦は教如上人が本願寺法主に就くも、1593(文禄2)年秀吉から(いん)退(たい)処分を受けたという経緯もありましたが、家康から烏丸の土地寄進もあって、本願寺の東西分派は決定的となりました。

徳川家康が、勢力が増大した本願寺教団の分断を図るために烏丸の土地を寄進したという説がありますが、前述のように教団は元々分裂状態にあったわけで、家康はその現状を追認したに過ぎなかったのではないでしょうか。かくして本願寺教団は、西本願寺と東本願寺に分派。西本願寺は准如上人、東本願寺は教如上人がそれぞれ第十二世法主の座に就き法灯を伝持(でんじ)。西本願寺は京都・堀川の地、東本願寺は京都・烏丸の地にそれぞれ寺地を取得し諸堂宇を建立。安泰の時機到来かと思いきや、1788(天明8)年京都大火によって東本願寺・佛光寺(ぶっこうじ)・西本願寺学林が焼失。加えて、『真宗略年表』には「1823年(文政6)年11月東本願寺焼ける.仮堂を建てる」の記載があります。

下って1858(安政5)年、京都大火によって両堂焼失。1864(元治1)年には、長州藩と幕府が衝突した禁門(きんもん)の変が惹起し、戦火によって両堂以下諸堂が灰燼に帰しました。開創から二百数十年の間に何と4回も火災禍に遭遇した東本願寺ですが、門徒の皆さんの(そう)(きょう)の念(あつ)く、その都度再起を願って立ち上がり本山再興を成就しました。そうしたことを象徴するエピソードの一つが「()(づな)」。ご存知のように、東本願寺の御影堂と阿弥陀堂を繋ぐ(たか)廊下(ろうか)には、ガラスケースに入った毛綱と大橇(おおぞり)が展示されています。明治期に両堂を再建したときに使われたものと伝えられています。

大きな(けやき)などの材木を()くために使った毛綱。普通の縄で巨大な材木を曳くと切れてしまいます。女性の毛髪で造った綱は頑強。そこで信心篤い女性たちが自分の髪を切って本山のために寄進したといわれます。髪の長さは60㎝ほどあったとか。これを集めて撚り合わせて縄に仕立て上げたのでしょう。毛のみで撚ったのか或いは麻などと一緒に撚ったのか定かではありませんが、強力な毛綱が両堂再建に貢献したことは間違いありません。また、毛綱とともに展示されている大橇は、深山から巨木を運び出すために使用されました。いずれも愛山(あいざん)護法(ごほう)の信念の賜物といえましょう。

禁門の変から31年、1895(明治28)年に現存の両堂が竣工。かくして本願寺教団は、ハード面での度重なる激動・激変を克服して安寧を確保。しかし、教学・教化・伝道のソフト面での取り組みは如何だったでしょう。就中(なかんずく)〝同朋精神〟は? まさか「そんな形而上(けいじじょう)のことに関わっている余裕なんてない。財務、財務!」とおっしゃったかどうか。いやいや、財務は最重要課題だったのです。明治期両堂再建の負債償還のために、懇志勧募(こんしかんぼ)を目的として「相続講(そうぞくこう)」を新設。この募財システムは現在まで連綿と続き「2021年度真宗大谷派予算」では、経常部歳入として「相続講金4286,000,000円」を計上。歳入総額7,804,000,000円の何と55%を占めています。相続講金は重要な財源。

改めて相続講の趣旨はといえば、親鸞聖人の明らかにされた本願念仏の教えを受け継ぐ「(ほう)()相続(そうぞく)」とともに、東本願寺を崇敬(そうきょう)護持(ごじ)すること。この趣旨に賛同し、相続講金を納めたご門徒へは(しょう)(てん)が付与されます。具体的には、12万円以上に対しては御影堂(ごえいどう)に安置されている親鸞聖人の御真影(ごしんねい)の許に遺骨を収納((しゅ)弥壇(みだん)(しゅう)(こつ))する賞典。一方、8万円以上納めた門徒には「院号(いんごう)法名(ほうみょう)」の賞典が付与されます。いずれの場合も、手続きは()次寺(つぎでら)()→教区→本山のルート。賞典の証書や院号法名の付与は逆コース。

相続講金は「宗議会・参議会」で宗派予算案が議決された後、地方の教区へ御依頼(ごいらい)(がく)が示され「教区会・門徒会」で審議。可決された教区御依頼額を各組(かくそ)(名古屋教区の場合32ヶ組)へ割当御依頼。割当御依頼を受けた組では「組会(そかい)」を開いて各寺の割当額を決定。こうしたプロセスを経て、全国各教区・組で派内全寺院に割当依頼額が示されます。しかし、各寺院の規模や地域の差もあり〝公平〟な割当額算定はほぼ不可能。一方で平均割りの意見もあり、1967(昭和42)年度の名古屋教区第2組の組会で平均割りが決議されたとの記録があります。「今年度より本山経常費は各寺平均割りとする。多年の懸案にて種々問題はありますが、一応以上決定す。」の組長(そちょう)コメントも。

下世話(げせわ)ながら、当山の相続講金(本山・宗派経常費)の2021年度割当額(かっとうがく)130万円余。割当額が組会の議を経て決定するのは例年8月末ごろ。9月初めにまず全額を立替払いで納付。須弥壇収骨も院号法名も当山からお声がけをすることなく、ご門徒からの申し出を受けて組の担当者に申請手続きを依頼。組の担当者は教区を通して本山に申請。例年、須弥壇収骨と院号法名の申し込みで割当額はほぼ完納できています。年度によっては割当額をオーバーすることも。有り難いことです。

合掌

2022/04/03  前住職 本田眞哉 記

                                                  

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