法 話

(255)「蓮如上人(25)」


 


大府市S・E氏提供  

 

(こう)

 

ここで、今一度蓮如(れんにょ)上人のご生涯をレビューしてみましょう。本願寺第八世・蓮如上人は、室町時代の1415(応永22)年に第七世・存如(ぞんにょ)上人の長男として出生。16歳の時、(しょう)蓮院(れんいん)で得度。折しも、各地で「一揆」が発生し、度重なる飢饉で、京の町は餓死者数多(あまた)死屍(しし)累々(るいるい)だったとか。そうした混迷のなか、本願寺は延暦寺衆徒による破却を受けて寺基を大津に移転。上人は、1471(文明3)年吉崎に坊舎を建て、『御文』の作成や『正信偈(しょうしんげ)』・『和讃(わさん)』の刊行などの教化・伝道活動を展開。1482(文明13)年、山科に御影堂( ご えいどう)・阿弥陀堂を建立して本願寺の再興を成就。1489(延徳元)年退隠(たいいん)するも、1496(明応5)年大坂石山に坊舎を建てて山科との間を往来したといわれます。上人は教化面のみならず、教団運営の面でも精力的に活躍し、残された業績は実に偉大。

そうした教団運営・組織統括の激務のなか、上人は北陸・東海・奥州に教化伝道に赴き、教線拡大に尽力。今から500年以上前のこと、交通機関と名のつくものは何もありません。草鞋掛(わらじが)けで何百里、巡化(じゅんけ)に精励されたのです。想像を絶するご苦労、頭が下がります。本願寺教団中興の祖とも称えられる蓮如上人ですが、1499(明応8)年85歳で入寂。その後、『御文』拝読の宗風は、衰えたととはいえ、今日に至るまで500年余にわたり連綿と伝承されてきています。がしかし、上人が注目し『御文』に引文された親鸞聖人の「御同朋(おんどうぼう)御同行(おんどうぎょう)」の(こころ)「同朋精神」は、上人亡きあと本願寺教団内に根を張って行ったでしょうか。

上人御在世のころ盛んになった「(こう)」、毎月二回定例的に開かれたといわれます。その「講」に集うメンバーは、当時の社会の身分階層を超え、差別を破って、同じ信心を喜ぶ信仰共同体を形成していきました。まさに「同朋社会の顕現」といったら、いささか大袈裟でしょうか。「同朋精神」は、「講」という宗教活動の中で受け継ぎ伝えられて根を張ってのではないか、と。当山の「五日講(いつかこう)」の消息(しょうそく)の巻末に、「乗如(じょうにょ)」(17441792)の門主名が記されていることと、添書に宝暦十四年六月十日と墨書されているところから、江戸時代中期に下付されたものと思われます。となれば、幕藩体制の中でも「講」には活力があったといえましょう。

「講」源義は「講義」・「講読」にあるとか。しかし「講」は、大学の講義のような堅苦しく難解なことを聴く場ではなく、信心のことを皆で話し合う場といいますか、集まりといいましょうか…。当山には、前述の「五日講」のほか「十三日講」「十八日講」「二十五日講」があります。いずれの講も〝休眠〟状態。月例の講では講員が集まることなく、当番(宿)の家族のみなさんとともに、正信偈・念仏・和讃・廻向でお勤め。続いて、「御消息」(御書)を拝読。拝読終わって、法語などについてミニ法話。次の日、翌月の当番(宿)の方が法具一式をお迎えに来てバトンタッチ。

法具一式の中でメインは、いうまでもなく巻物の御消息。御消息の内容は、門主のオリジナルもありますが、蓮如上人の『御文』を再録したものが多いようです。例えば、前述の「五日講」もいわゆる〝御文御書〟。三帖目第十三通、「それ当流門徒中において…」。『御文』は片仮名交じりの楷書体ですが、御消息は変体(へんたい)仮名(がな)交じりの草書体。非常に読みづらい。私の年代でも学校教育で変体仮名は習得しでいません。如何に況んや、次代の住職においてをや。巻末には「右如蓮如上人文可有信心決定事肝要也」の奥書と「(りん)(しょう)十日」。そして門主名「乗如」と「光遍(こうへん)」の朱印。最後に小文字で「尾州(びしゅう)知多郡(ちたごおり)緒川村(おがわむら) 了願寺五日(いつか)講中(こうじゅう)

「講」は、一般的に自宅などを「道場(どうじょう)」としで開かれたといわれます。「道場」とは? 剣道場、柔道場の「道場」ではないことはいうまでもありませんが、本願寺第三世(かく)(にょ)上人撰述の『改邪鈔(かいじゃしょう)』第九条には次のように記されています。

おおよそ造像(ぞうぞう)起塔( き とう)等は、弥陀の本願にあらざる所行(しょぎょう)なり。これに よりて一向(いっこう)専修(せんじゅ)の行人、これをくわだつべきにあらず。されば、祖師聖人御在世( ご ざい せ )のむかし、ねんごろに一流を面授(めんじゅじゅ)口決(くけつ)し奉る門弟達、堂舎を栄作するひとなかりき。ただ道場をばすこし人屋(じんおく)に差別あらせて、小棟をあげてつくるべきよしまで御諷諫( ご ふうかん)ありけり。(後略)

【要旨】大体のところ、肖像を造ったり塔を建てたりすることは、弥陀如来の本願にない行為である。このことから一向宗(真宗)の人はこうしたことを企ててはいけません。だから、親鸞聖人ご存命中に一流の教えを聖人から直接口伝えで聞いた門弟達は、堂舎を建てることはありませんでした。ただ、道場の建物は、一般の建物と少し差を付けて、棟を少し高くしてもよろしい、との助言がありました。

 そうそう、当地にも真宗門徒の「道場」がありました。当山から南へ4㎞ほどの在所。終戦前、地元の人たちは「おどじょ」と呼んでいました。入り江を隔てた三河の大坊の支坊とのことでしたが、寺ではありませんでした。戦後「宗教法人令」が「宗教法人法」に改訂された折り、全国的にも相当数の〝新寺〟が誕生。当該「おどじょ」も、「寺院規則」をはじめ各種書類を整え「宗教法人」の設立認可を申請。諸要件を満たし、宗教法人の設立が認可されました。新寺号も公開され、真宗大谷派の組織・名古屋教区第二組(だい に  )の名簿に名を連ねることに。

さて、当山では毎年年末から年明けにかけて、各講組で「在家(ざいけ)報恩講」とか「廻り報恩講」という、各家庭での報恩講をお勤めしています。午前中に45軒、午後56軒、二組(ふたくみ)に分かれてお勤めします。もちろん、それぞれ講員数人が「助音(じょいん)」(勤行(ごんぎょう)の時、導師の調声(ちょうしょう)に和して(じゅ)すること)につきます。門徒宅から次のお宅へ、そしてまた次のお宅へ、もちろん徒歩で。時節柄雪の降る日もあり、道中襟を立て、背を丸めて…。昼食は〝宿〟でいただき、再び午後のお参りへ。午後の後半ともなると、膝の痛みが増大。申し込まれたご門徒宅でのお勤めが完了したところで、二組が宿で合流。

宿では、まず宿の報恩講をお勤めします。次に仏前の荘厳を改め、講組の報恩講を勤修。勤行に続いて御消息を拝読。住職「(あし)をお楽に」の言葉とともに自らも転座して法話。法話終わって席を車座に改め、組や寺の事務連絡。そして最後はお(とき)(会食)。講の年間総まとめともいえる、こうした一連の法座のことを当地では「お惣仏(そうぶつ)と称しています。しかし、ウェブ上の(真宗大谷派)「真宗人物伝」には、「(前略)こうした『廻り道場』の本尊は多くの場合、道場が開かれる際に本山から下付された方便法(ほうべんほっ)(しん)の尊像であり、門徒集団の共有物と認識され『惣仏』と称された」と記載。真宗行儀伝承の地域差(近江:尊像&尾張:法座)でしょうか。

さて(くだん)の「お惣仏」、お(とき)の席はアルコールも入り賑やかに。そうした席で、あるご門徒が「うちのお寺には大鐘(おおがね)が無い、大鐘を造ろうや!」と、大声で皆に呼びかけました。太平洋戦争の「金属類回収令」で、他の仏具とともに梵鐘も供出せざるを得なかったのです。牛車に乗せられて遠ざかってゆく梵鐘が、今でも瞼に浮かびます。お惣仏での声がけが発端となって気運が盛り上がり、役員の皆さんも真剣に取り組み、全門徒に募財を呼びかけました。お陰で目標額を達成、京都の梵鐘鋳造会社に発注。1951(昭和25)年、重さ250貫目の梵鐘を再鋳することができました。

一方、寺での「講」の集大成は「報恩講」。我流:報恩講とは、「弥陀如来と宗祖親鸞聖人の恩に報いる講習会」。本山では、毎年聖人のご命日1128日を期して7日間厳修されます。『御文』二帖目第一通には、「そもそも、今度一七か日報恩講のあいだにおいて、…」とありますように、7日間お勤めするのが正式。しかし、末寺では期間を短縮。近隣の寺の中に、かつては5日間勤修していたケースもありましたが、現今では2日間乃至3日間勤修が通例となっています。当山の日程はといえば、初日午前は同朋会の総会、午後に報恩講の「初逮夜(しょたいや)」。二日目午前は報恩講御満座(まんざ)の「(じん)(じょう)」、午後は同「日中(にっちゅう)

合掌

2022/06/03  前住職 本田眞哉 記

 

                                                  

  to index