法 話
(256)「蓮如上人(26)」
大府市S・E氏提供 |
『中世から近世へ』
唐突ながら、1600(慶長5)年は関ヶ原の戦い。高校時代の社会科・日本史で学習しました。区切りのよい西暦年で覚えやすく、今でも脳裏にこびりついています。「関ヶ原」は、美濃国の関ヶ原。現在の岐阜県不破郡関ケ原町関ヶ原。ここで天下分け目の大いくさがあったのです。誰と誰が戦ったのか。徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍との天下分け目の戦い。あれ!徳川家康と豊臣秀吉の戦いではなかったの?
といぶかるムキもおありかと。もちろんこの戦いの背景には、豊臣秀吉の置き土産的側面があることは間違いないと思います。
1598(慶長3)年、病に倒れた秀吉は後継者に庶子(側室淀殿の第二子)秀頼を指名。6歳と幼少のため、後見人として「五大老」「五奉行」の役職を設置。五大老のメンバーは、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・小早川隆景。ただ、1597(慶長2)年に小早川隆景が亡くなると上杉景勝が、1599(慶長4)年前田利家が死去すると、嫡男の俊長がそれぞれ補任されました。一方五奉行は、前田玄以・浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家の五名。彼らの職務はといえば、五大老は現代でいう閣僚で、五奉行は官僚機構最高位の事務次官に相当するのではなかろうかと、いささか乱暴な比喩で失礼。
ところで、五大老と五奉行の石高は? それぞれの石高を見ると、五大老の徳川家康は256万石でダントツ。毛利輝元・上杉景勝120万石、前田利家83万石、宇喜多秀家57万石。五奉行の石高はといえば、浅野長政・増田長盛は22万石、石田三成19万石、前田玄以・長束正家は5万石。総じて五大老の石高の方が五奉行の石高を凌駕しでいます。また、それぞれのグループ内の石高差は、それなりの格差意識を醸し出していたのではなかろうか、と推測。いずれにしても五大老・五奉行の職責は重大で、両々相俟って豊臣政権の安寧保持に貢献したと思われます。
ところが、秀吉は1598(慶長3)年病に倒れ、その年の8月に病没。主亡き後、後継秀頼の後見人であるサポートメンバー、五大老と五奉行の間の雲行きが剣呑な雰囲気に。就中、徳川家康と石田三成の対立。翌1599(慶長4)年閏3月、大老の前田利家が死去して調停役をなくした石田三成は、七將から敵視されることに。因みに七將とは。福島正則(尾張清洲城主)・加藤清正(肥後熊本城主)・池田輝政(三河吉良城主)・細川忠興(丹後宮津城主)・浅野幸長(甲斐甲府城主)・加藤嘉明(伊予松山城主)・黒田長政(豊前中津城主)。
政権内では、秀吉亡き後内部対立はさらに深まり、七將をはじめとする〝武断派〟と、石田三成など行政担当の〝文治派〟との対立が深刻化。ついに石田三成襲撃が企画されました。以前から三成に恨みを抱いていた武断派は、大阪城下の加藤清正の屋敷に集合し、三成の屋敷を襲い三成を討ち取ろうと計画。しかし、三成は政権内の内密情報網でこれを察知、島
清興らととともに佐竹義冝の屋敷に逃れて難を免れたとのこと。ここで気になるのは徳川家康の動き。こうした七將の行動は、あくまでも家康の同意の下で実行されたとかで〝内戦〟ではなく〝政争〟と捉えるムキもあるようです。いわば、家康公認の襲撃事件だったのかも…。
しかし、この〝政争〟これで収束とはならなかったようで、佐竹邸に逃れた三成一派は、加藤軍の急追を受けて脱出し、伏見城下の三成の屋敷に籠城。その後の事態の成り行きについては諸説あるようですが、三成は佐竹義冝に伴われて伏見の家康の保護下に置かれた、との説が有力。そして、七將が家康に三成の身柄引き渡しを求めたのに対して家康はこれを拒否。代わりに三成を隠居させることと、
その後、蟄居した三成の動向は?
謀反の疑いがかけられた上杉景勝を伐つために、家康は豊臣政権の正規軍を率いて会津へ出陣。これを知った三成は、秀吉の遺訓に背いて後継秀頼を蔑ろにした、という大義名分のもと挙兵。これを知った家康は、会津攻めを中止し上方へと転進。江戸城に着いた頃、三成はすでに家康の拠点・伏見城(京都府)を攻め落とし、さらに大垣城(岐阜県)に入城して美濃国を押さえ、家康迎撃の布陣。一方、家康率いる東軍は9月1日、江戸城から西へ西へと進軍、各街道の要衝である関ヶ原へ。ここに徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が相まみえることに。
1600(慶長5)年9月15日早朝、ついに天下分け目の「関ヶ原の戦」の火蓋が切られたのです。緒戦は、総勢力の勝る西軍が有利に展開しましたが、西軍のうちで東軍と積極的に戦ったのは、総勢ではなく35、000ほどだったといわれます。三成が総攻撃の狼煙を上げても反応がなかったとか。中でも松尾山の小早川秀秋と吉川秀家の軍勢は動かなかったといわれます。石田三成率いる西軍内で謀反が発生。西軍の小早川秀秋と吉川秀家の勢力が東軍と密通していたのです。その他の大名も含めて複数の勢力が
ところで、なぜここで関ヶ原の戦いを引き合いに出したのかと、いぶかるムキもおありかと…。有史以来、日本でこれほど重大な事態が濃密に発生した時代は希有なことではなかろうか、と思ったのがきっかけ。この時代とは1580(天正8)年から1623(寛永7)年までの43年間。中世から近世へと移りゆくタイミング。一方、政治・政権のみならず、本願寺・真宗教団にとっても実に重要なエポックメイキングな時代。国政と宗政が微妙に絡み合っている面も窺われ、両者を照合して、年表上で分かりやすく表示できたらと思い、トライしてみましった。
中世(桃山時代末) ~ 近世(江戸時代初)年表 | |||
西 暦 | 和 暦 | 国 政 | 本願寺・真宗教団宗政・当山 |
1580 | 天正 8 | 勅により本願寺と信長講和 教如抗戦を主張 石山本願寺堂舎焼失 | |
1581 | 天正 9 | 了願寺開基良空歿 | |
1582 | |||
1583 | |||
1584 | |||
1585 | 天正13 | 秀吉 本願寺に大坂天満の地を寄せる | |
1586 | 天正14 | 秀吉 仏光寺を渋谷から現在地五条坊門に移転させる | |
1587 | |||
1588 | |||
1589 | |||
1590 | 天正18 | 秀吉北条氏を撃ち全国統一 | |
1591 | 天正19 | 秀吉 本願寺に京都七条堀川の地を寄せる 移転、工事始まる | |
1592 | 文禄 1 | 文禄の役(朝鮮出兵) 朱印船貿易始 | 本願寺影堂供養 顕如歿 教如継職 |
1593 | 教如隠居 准如継職 | ||
1594 | 文禄 3 | 太閤検地 | |
1595 | |||
1596 | |||
1597 | 慶長 2 | 慶長の役(朝鮮出兵) 小早川隆景歿 | |
1598 | 慶長 3 | 豊臣秀吉歿 朝鮮撤兵 | 准如 摂津津村坊舎建立 教如 摂津渡辺坊舎を難波村に移す |
1599 | 慶長 4 | 前田利家歿 | |
1600 | 慶長 5 | 関ヶ原の戦 家康覇権確立 蘭船渡来 | 教如 近江大津に坊舎建立 教如 徳川家康を東国に訪う |
1601 | 慶長 6 | 家康の禁教令発布 銀座・大判小判鋳造 | |
1602 | 慶長 7 | 家康教如に京都 |
東本願寺成立 教如初代住職に就任 東西分派 |
1603 | 慶長 8 | 家康征夷大将軍に補任 江戸幕府開府 | 教如 上野厩橋から影像を迎え、 烏丸六条の仮御堂に移る |
1604 | 慶長 9 | 糸割符奉書発布 | 東本願寺影堂遷座式を行う |
1605 | |||
1606 | 慶長11 | 了願寺第二世良賢歿 | |
1607 | |||
1608 | |||
1609 | 慶長14 | オランダ人来朝 通商許可 | |
1610 | 慶長15 | イスパニア人に通商許可 | |
1611 | 慶長16 | 親鸞三百五十回忌 | |
1612 | 慶長17 | 准如駿河に家康を訪う | |
1613 | 慶長18 | イギリス人来朝 通商許可 | |
1614 | 慶長19 | 大阪冬の陳 高山右近を国外追放 | 教如歿 准如 二条城に家康を訪う? |
1615 | 元和 1 | 大坂夏の陣 豊臣氏亡ぶ(元和偃武) | |
1616 | 元和 2 | 徳川家康歿 | |
1617 | 元和 3 | 西本願寺焼ける | |
1618 | 元和 4 | 外国船の貿易を長崎・平戸の2港に制限 | |
1619 | 元和 5 | 徳川秀忠(第二代) 東本願寺に安堵状をを渡す | |
1620 | |||
1621 | |||
1622 | |||
1623 | 元和 9 | 徳川家光(第三代)上洛 将軍宣下 |
合掌
2022/07/03 前住職 本田眞哉 記