法 話

(257)「蓮如上人(27)


 


大府市S・E氏提供  

選択(せんじゃく)本願(ほんがん)



前回、「中世から近世へ」のタイトルのもと、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いを中心に、国政面と我が宗政上において濃密に並ぶ大きな動きについて考察を試みました。加えて、当山・了願寺の開基住職並びに第二世住職の歿年も年表に加筆し、当山寺歴の草創期が同時期であることを確認しました。しかし後日、中世末期に本願寺教団に惹起した、ある重大事象を看過していたことに気づきました。それは、添付年表の初項1580年から歴史の時計の針を17年ほど戻した、1563(永禄6)年に当山近隣で発生した一向(いっこう)一揆(いっき)

ところで、「一揆」とは何ぞや? 『広辞苑』を紐解いてみると「①道・方法を同じくすること。②心を同じくしてまとまること。」と記されています。一方、「一向」は「一向宗(いっこうしゅう)」の一向。では、その一向宗とは? わが浄土真宗の俗称。蓮如上人が認められた『御文』一帖目(いちじょうめ)第十五通には、

問テイハク。当流ヲ、ミナ世間ニ流布(るふ)シテ、一向宗ト名ヅケ候 ハ、イカヤウナル子細ニテ候ヤラン。不審ニオボエ候。

答テイハク、アナガチニ我流(わがりゅう)ヲ、一向宗トナノルコトハ、別シテ  祖師モサダメラレズ。オヨソ阿弥陀仏ヲ一向ニ頼ムニヨリテ、ミナ人ノマウシナスユヘナリ。シカリトイヘドモ経文ニ、一向專(いっこうせん)(ねん)無量(むりょう)寿仏(じゅぶつ)トトキタマフユヘニ、一向ニ無量寿仏ヲ念ゼヨトイヘルココロナルトキハ、一向宗トマウシタルトモ子細(しさい)ナシ。サリナガラ、開山ハコノ宗ヲバ、浄土真宗トコソサダメタマヘリ、サレバ一向宗トイフ名言ハ、サラニ本宗ヨリマウサヌトシルベシ。(後略)

とあります。

【要旨】当流のことを、世間では一向宗と名づけているようだが、どうしてなのか不審に思っています。その訳を教えてください。

 お答えしましょう。当流を一向宗と()()ることは、特に宗祖親鸞聖人がおっしゃったことではありません。大体、阿弥陀仏を一向にたのむ教えなので、みんながそういうのでしょう。とはいえ、経文に「一向專念無量寿仏」と説かれていますので、一向に無量寿仏を念ぜよという経文どおりの(こころ)でいうのであれば、一向宗と言っても差し支えありません。しかしながら、宗祖親鸞聖人はこの宗を、浄土真宗と定められたのです。それゆえ、一向宗という宗名は、ことさら我が宗より言うべきでない、と心得ておきましょう。

 要するに、「一向宗」という宗名は世間に流布するいわゆる俗称であって、正式名称は、あくまで「浄土真宗」である、ということ。ただ、今日の国法上の当山の宗派名は「真宗大谷派」(本山・東本願寺)。いわゆる〝お西〟は「浄土真宗本願寺派」(本山・西本願寺)。宗祖親鸞聖人は自著『三帖和讃(さんじょうわさん)』の中の『浄土和讃』で次のように(うた)っていらっしゃいます。

       念仏(ねんぶつ)成仏(じょうぶつ)これ真宗

       (まん)(ぎょう)諸善(しょぜん)これ仮門( けもん)

       (ごん)(じつ)(しん)()をわかずして

       自然( じねん)の浄土をえぞしらぬ

【要旨】念仏一つで往生の身となり仏と成なれる教えこそ(まこと)(おしえ)である

諸善万行を励んで仏に成りたいと願うのは、衆生の体質を見抜いて誘い 入れる、真実にあらざる仮の手立てである。

   一時的仮の手立ての〝(ごん)〟と永遠に変わらない絶対の真実〝(じつ)〟、その分別ができない状況であるから、

    おのずからそのようにならしめられている〝浄土〟を知らないのです。

※ほんものとかりものとの分別が(うなず)けたとき、「自然( じ ねん)の浄土」が明るく見えてくる、ということなのでしょう。

 さらに、同じく『三帖和讃』の中の『高僧和讃』には次の和讃が収められています。

       智慧光( ち え こう)のちからより

       本師源(ほんじしょう)(にん)あらわれて

       浄土真宗開きつつ

       選択(せんじゃく)本願(ほんがん)のべたもう

【要旨】阿弥陀如来がはなつ智慧の光のはたらきのもと

    この上ない師・(げん)(くう)(ほう)(ねん))上人となって顕現したまい

    今まで浄土往生は、方便(ほうべん)で仮の手立てであったものを、浄土教こそ如来真実に叶う(おしえ)であることをあきらかにされ

    我らをたすけんがために選択された第十八願の念仏を、ひろくお説きになったのです。

※第四句目に「選択本願のべたもう」とありますが、そのもとは次のような行実に基づいているのです。

 法然(源空)上人は1198(建久9)年六十六歳の時。関白(かんぱく)九条兼(くじょうかね)(ざね)の請いに応えて『選択(せんじゃく)本願(ほんがん)念仏集(ねんぶつしゅう)』を撰述しました、文頭に「南無阿弥陀仏 往生之業(おうじょうしごう) 念仏(ねんぶつ)為本( い ほん)」と掲げ、本願念仏の義をあきらかにされたのです。宗祖親鸞聖人はこの著作を書写することを(ゆる)され、その感動は聖人の生涯にわたり途絶えることがなかったようです。略称は『選択集(せんじゃくしゅう)』。当流の「(しち)()聖教(しょうきょう)」の一。因みに、七祖とは? 宗祖親鸞聖人が真宗相承の祖師と定めた三国七人の高僧。印度の竜樹(りゅうじゅ)(てん)(じん)、中国の曇鸞(どんらん)道綽(どうしゃく)善導(ぜんどう)、日本の源信(げんしん)(げん)(くう)(しち)高僧(こうそう)

 『選択本願念仏集』は十六章からなる浄土宗の根本聖典。内容は、三経(無量(むりょう)寿(じゅ)(きょう)(かん)無量寿経・阿弥陀(あみだ)(きょう))や、善導和尚( か しょう)義疏( ぎ しょ)等を引用して私釈を加えたもの。総じて、(しょう)道門(どうもん)をさしおいて、浄土門(じょうどもん)に入り、(ぞう)(ぎょう)()てて正行(しょうぎょう)()し、助業(じょごう)(かたわら)にして、正定業(しょうじょうごう)を専らにせよ、との三選の意を提唱。源空上人は〝偏依(へんね)善導一師(ぜんどういっ し )〟といわれるように善導大師を師と仰ぎ、その教えに信順。その流れはさらに宗祖親鸞聖人に受け継がれ、主著『(きょう)(ぎょう)信証(しんしょう)』の中にも『選択本願念仏集』を引用し、祖意をあきらかにされています。

 『教行信証』行巻に、

        『選択本願念仏集』源空 ()わく、南無阿弥陀仏 往生の業は念 仏を本とす、

また云わく、それ速やかに生死(しょうじ)を離れんと(おも)わば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を(さしお)きて、選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと(おも)わば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの(ぞう)(ぎょう)(なげう)ちて、選びて正行(しょうぎょう)に帰すべし。正行を修せんと欲わば、正助二業の中に、なお助業を(かたわら)にして、選びて正定を専らすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏の名を称するなり。称名(しょうみょう)は必ず生まるることを得。仏の本願に依るがゆえに、と。已上

【要旨】宗祖親鸞聖人のお師匠さんである源空(法然)上人が著された『選択本願念仏集』のメイン・テーマは「南無阿弥陀仏」、そして浄土に仏に生まれる正定業(しょうじょうごう)は、専修念仏の他はない。雑行を修する聖道門を離れて浄土門に入り、念仏を専ら修する正行の道を選びなさい、ということでしょう。

 宗祖親鸞聖人は、自らの聖道門から浄土門への転向について『教行信証』化身土巻・末、いわゆる「後序( ご じょ)」で熱っぽく吐露されています。

然るに愚禿( ぐ とく)釈の鸞、(けん)(にん)(かのと)(とり)(れき)1201)、雑行を()てて本願に帰す。元久(げんきゅう)(きのと)(うし)の歳(1205)、(おん)(じょ)(かぶ)りて『選択』を(しょ)しき。同じき年の初夏( そ か )中旬(ちゅうじゅん)第四日に、『選択本願念仏集』の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏爲本」と「釈の綽空」の字と、空の真筆をもって、これを書かしめたまいき。(後略)

※綽空:親鸞 空:源空 西暦:私註

【要旨】いまさらいうまでもなく、宗祖親鸞聖人は九歳の春、()(えん)和尚( か しょう)のもとで出家得度し、(はん)(ねん)と名告られ比叡山延暦寺で修行の道へ。以後二十年間修学するも、生死(しょうじ)の迷いを離れる道は見つかりませんでした。苦悶する中、聖人は比叡山を降り、聖徳太子の建立(こんりゅう)と伝えられる六角堂に、誰でもが救われる道を求めて百日の参籠(さんろう)。九十五日目の暁、聖人は夢の中で救世( く せ )菩薩( ぼ さつ)のお告げを感得。

 その中身は? 生死の迷いを離れて行くべき仏道が、その迷いの中にこそ成就している。その教えは願生(がんしょう)浄土(じょうど)の仏道で、京の町でその道を説いている法然聖人を訪ねなさい、ということでした。聖人は早速法然上人を吉水に訪問。そして、聖人が法然上人から聞き取られたキーワードは「ただ念仏して、弥陀にたすけまいらすべし」。その教えを聞いて聖人は、「雑行を棄てて本願に帰す」と感動の言葉を発するとともに、雑行から正行へ、(しょう)道門(どうもん)から浄土門(じょうどもん)への大転換を成し遂げられたのです。時に聖人二十九歳。このことは仏学道上の大転換のみならず、聖人の人生のターニングポイントとなったことはいうまでもありますまい。

 大転換の宣言に続いて、『選択本願念仏集』の書写を恩恕(おんじょ)された歓びを謳っていらっしゃいます。加えて、法然上人は「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏爲本」のキャッチコピーを自らご染筆(せんぴつ)。のみならず、「釈の(しゃく)(くう)」の為書きの揮毫も。こうした作法、似て非なる?卑近な例が…。それは著書出版のときのこと。知己朋友等に新刊書を差し上げるとき、中表紙に「謹呈」の文字と呈上宛貴名、そして自身の氏名を揮毫することが望ましいとか。要するに、著者が「サイン」して贈呈すると、著者と読者の親近感が一層増すことになろうか、と。私自身、過去4冊自著を出版したときのことを思い出しつ。蛇足にて失礼。

合掌

2022/08/03  前住職 本田眞哉 記

                                                  

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