法 話
(258)「蓮如上人(28)」
大府市S・E氏提供 |
『三河一向一揆』
前回イントロで「1563(永禄6)年に当山近隣で発生した一向一揆」と記しながら、ストーリーが方向を変えて展開してしまいました。軌道修正をして話を当初の「一向一揆」に戻しましょう。さて、「一揆」とは何?
『広辞苑』の説明を採録しますと「①道・方法を同じくすること。②心を同じくしてまとまること」とのこと。室町時代後半には各地で「土一揆」と呼ばれるものが多発しています。例えば、歴史年表の政治・経済・社会欄には、1428(正長元)年に「正長の土一揆」。1448(文安5)年には「この頃山城・大和に土一揆頻発」と記されています。
そうしたなか、1488(長享2)年には「加賀一向一揆」の記載。さらに1532(天文1)年の欄には「近畿各地に一向一揆」とあります。冠の「土」が「一向」に。因みに「土一揆」とは?
室町中期に畿内を中心に頻発した農民・地侍の武装蜂起。年貢の減免や徳政を要求して、荘園領主・守護大名、また酒屋・土倉などの高利貸とも武力で争った。どいっき。(goo辞書)
一方、一向一揆とは?
室町・戦国時代に近畿・北陸・東海地方で起こった一向宗(浄 土真宗)門徒の一揆。僧侶、門徒の農民を中心に、名主・地侍が連合して、守護大名・荘園領主と戦った。加賀一揆のように一国を支配したものもあったが、1580(天正8)年の石山本願寺に対する織田信長の石山合戦を最後に、幕を閉じた。(goo辞書)
「一向專念無量寿仏」の教えを胸に、教団を守るために、或いは悪政に立ち向かうために身を挺して権力と闘った門徒衆、過激といえば過激ですが、その念力には脱帽です。その一向一揆が当山近隣の地で発生したことが歴史年表に記されていました。それは「1563(永禄9)年 三河一向一揆起る」。
三河は東海道十五カ国の一。歴史は古く、大化改新のころに一国になったとか。三河の国は、愛知県地図の東側三分の二を占めています。西側三分の一は尾張の国。その境界線は文字通り「境川」。当山から愛知県道51号知立東浦線を東進すると、約1㎞の地点に境川があります。橋を渡ると三河の国・刈谷市。真宗大谷派の全国組織では、当山は名古屋教区。境川を隔てた向こう側の刈谷市は岡崎教区。刈谷市内には当派の寺院が18ヶ寺ありますが、すべて岡崎教区に所属。中でも当山とご縁の深い1ヶ寺が国境から1㎞ほどのところにあります。それは名刹専光寺。
深いご縁とは何かといえば、当山了願寺と専光寺とは「相焼香」の関係にあるということ。聞き慣れない用語かと思いますがこの相焼香とは、2ヶ寺が1組となって、寺族の葬儀や法事の折にそれぞれが導師となってお勤めをしあうシステム。そうした儀式の最重要な作法「焼香」を象徴的に取り出して名付けられたものと思われます。本願寺教団における何百年来の伝統。数多参勤法中が居並ぶ中で首座に座り、焼香し導師を勤めるとなるとプレッシャーは殊の外。頭では分かっているつもりの作法・調声も、思わぬミスを犯すことも。
ところで相焼香の専光寺、偉大な真宗学者を輩出しています。それは、前々住職で大谷大学教授の日下無倫師。現住職の祖父様。特に史学が専門で、著書『眞宗史の研究』がわが寺務所の書棚に、存在感豊に鎮座ましましています。A5判全838ページ、厚表紙の装丁。内容は研究論文集。奥書には、「著作者 日下無倫 発行所
京都市東洞院通三條上ル 平樂寺書店 昭和六年七月八日発行 定價 金六圓」の記載。内容は、「眞宗諸派の起原について」から始まって、「親鸞聖人の母公の研究」とか「親鸞聖人の思想三転」、「宗門沈滞時に於ける本願寺存如宗主」等々、目次の項目が眼を惹きます。
この『眞宗史の研究』を拝受したのは、私の父・当山15世の代であったと思います。父は1940(昭和15)年3月39歳で早世しておりますので、このことについて私は何も聞いておりません。ただ、日下無倫師は1888(明治21)年出生~1951(昭和26)年入寂(享年63歳)ですので、お目にかかった記憶はあります。父の三回忌か、あるいは1946(昭和21)年の七回忌に参勤戴いた時だったかも。いずれにしても、物静かで謙虚な方という印象を受けました。特筆すべきは、師が達筆であったということ。本山下付の法名に替えて、師揮毫の中陰法名を後々まで内陣余間に安置していた憶え。
寄り道をしてしまいましたが、話を三河一向一揆に戻しましょう。三河の国は大きく分けると、西三河と東三河の2地域になります。眞宗大谷派(東本願寺)寺門の分布は、西三河の方が濃厚。したがって一向一揆も西三河を中心に発生。一揆を起こすにはそれ相応の力と数が必要となりましょう。力は「一向専念阿弥陀仏」の信力。数は、燎原の火のごとく西三河地区に広がった念仏門徒衆。この二者が両々相俟って、侮れないエネルギーを持った「勢力」に成長したといえましょう。しからば、その三河門徒の原点は?
ご存知のとおり、宗祖親鸞聖人は1207(承元元)年2月法然上人とともに遠流に処せられました。法然上人は土佐の国へ、そして親鸞聖人は越後の国へ。聖人35歳の時のこと。越後に流されて5年後赦免。しかし京都へは戻らず、1214(建保2)年42歳のとき常陸国へ。その後約20年間、聖人は本願念仏の教えを関東の人々に伝え続けました。聖人の教えを受けて数々の門弟が誕生。にもかかわらず、その後帰洛。そうした人たちと別れてなぜ帰洛されたのか、その謎は未だ解明されていません。それともう一点、帰洛に際してどのルートを通られたのか、これも謎。
関東から京都へ、おそらく東海道を通って行かれたであろうと思われます。静岡県藤枝市の蓮生寺、浜松市の善正寺の寺伝では聖人とのご縁を伝えているとか。そうした中、兵庫教育大大学院の三浦哲史氏は、
岡崎・安城市やその周辺の古い歴史を有する真宗寺院の創立縁起には、親鸞が関東から京都へ帰る途中に矢作柳堂にて説法を行い、それを聞いて天台宗などから改宗したと伝えるものが多いという。親鸞は貞永元年(1232)頃帰洛するが、途中柳堂に寄ったという事実はなく、史実は認められていない。
と、論文『中世三河における真宗教団の展開』の中で記述しています。
件の「柳堂」、当山から東へ直線距離で15㎞ほどのところにあります。車で行くとすると、刈谷市を経て知立市へ。東海道五十三次39番目〝池鯉鮒宿〟(知立宿)からは国道1号線(東海道)を一路東進。矢作川に架かる矢作橋の3㎞ほど手前で右折し、約4㎞南進すると岡崎市矢作町桑子、眞宗高田派の妙源寺に到着。自坊から約25㎞。妙源寺のHPには次のような寺伝が掲げられています。
浄土真宗の寺に、「柳堂」にまつわる話があります。13世紀 半ば、浄土真宗の宗祖親鸞が関東からの帰洛途中に矢作薬師寺の柳堂で説法し、感銘を受けた方々が眞宗に帰依したというものです。これは「柳堂伝説」といわれるように、「造られたお話」と考えられています。一方妙源寺の柳堂は、桑子城主安藤信平が城内の太子堂(柳堂)に親鸞を招き、説法に感銘し妙源寺を開創したとされています。しかし、柳堂にまつわる伝説は複数伝えられており、妙源寺の柳堂の伝承もその一つでしょう。
境内に入ると「親鸞聖人説法舊蹟 柳堂」の石碑と「国指定重要文化財」の説明案内板。柳堂は、本堂の手前南(左)側に静かに佇んでいます。寄棟・檜皮葺屋根の小堂で、高欄を巡らした廻り縁が設えられています。中には聖徳太子像が安置されているとか。お堂の前には「國寶
柳堂」の堂々たる刻銘石碑。え? 石碑と並ぶ説明案内駒札には「国指定重要文化財」なのにここの碑文はワンランク上の「國寶」。はてさて…。
一方、妙源寺から北東2.5㎞のところにも柳堂旧跡があります。現国道1号線の北数十メートルのところを並行して走る旧東海道、岡崎市矢作町辺りを東進すると矢作川の堤防道路に突き当たります。その手前50mほど、左手に眞宗大谷派勝蓮寺参道入口があります。「親鸞聖人御𦾔跡柳堂」の石柱。ところは岡崎市矢作町宝珠庵16。勝蓮寺の寺伝(HP)には次のようなコメントがあります。
(前略)天台宗の僧惠堯が師の恵心作の薬師如来を矢作の里の柳樹の元に柳堂を建てて納め、柳堂薬師寺と称したことが起源といわれています。その後、嘉禎元年(1235)に、当寺の別当舜行が親鸞聖人の法弟となり、惠眼の法名を受け真宗に改められました。松平8代広忠、家康、信康、石川日向守などの崇敬が厚く、特に17代住職行誓の時には松平信康と関係が深く、多くの遺品が保存されています。
合掌
2022/09/03 前住職 本田眞哉 記