法 話

(259)「蓮如上人(29)


 


大府市S・E氏提供  



三河(みかわ)國念佛(くにねんぶつ)事始(ことはじ)




 親鸞聖人が関東から京都へ帰る途中、矢作の柳堂で説法し、感銘を受けた人々が眞宗に帰依したとか。これは「柳堂伝説」といわれています。因みに「伝説」とは? 「人物、自然現象等にまつわる、ありきたり日常茶飯事のものではない異常体験を形而上(けいじじょう)『事実』として伝えた説話の一種」(ウィキペディア)。一方goo辞書)には、「言い伝えること。言い伝えられること。また、うわさ。風聞。」。とあります。ということは、「柳堂伝説」も単なる〝言い伝え〟に過ぎないということになろうか、と。確かに「柳堂伝説」にまつわる確たる〝史料〟は見つかっておらず、史実とは認められていないようです。

となると、三河眞宗のオリジンは如何、そしてその史料は? ということに。三河における真宗の流入・展開を知ることができる史料は『三河念佛(みかわねんぶつ)相承(そうしょう)日記(にっき)』。その写本が岡崎市上佐々木の上宮寺(じょうぐうじ)に所蔵されています。上宮寺は、安城市から竜南メーンロードを岡崎市街地に向かって東進約2㎞、上佐々木の信号を右折、200㍍のところ右手にあります。同寺の佐々木(げっ)(しょう)師が36歳の時〈1911(明治44)年〉に自著『親鸞聖人傳』の中で『三河念佛相承日記』を取り上げ、初めて世間に公開されることになりました。ただ、昭和年代末の火災により堂宇を焼失し、同書も大きく損傷して修復中とか。

一方2006(平成18)年819日、同朋大学仏教文化研究所による東泉寺(とうせんじ)(岡崎市菅生町)の調査で、新たに古写本『三河念佛相承日記』が発見されました。同朋大学といえば、名古屋の学校法人同朋学園に属する三大学の一。他の二大学は名古屋音楽大学と名古屋造形大学。学園には、他に同朋高等学校と同朋幼稚園が設置されています。私事で恐縮ですが、小生同朋学園とは浅からぬご縁を戴いております。大学卒業と同時に同朋高等学校教諭を拝命。以後、13年間勤め退職。自坊住職道專念のところ、要請を受けて非常勤の理事職に。そして1991(平成3)年から1999(平成11)年まで8年間理事長職をお預かりさせて戴きました。

話が脱線していまい失礼しました。本論の『三河念佛相承日記』に戻しましょう。上宮寺本、東泉寺本とも表紙中央に「三河念佛相承日記」の墨書。本文見出しの一行は「三河國専修念佛根源事」(上宮寺本)。「三河國専修念佛(□□□クニセンシュ子ムフチ)根源事(コンクエンノコト)」(東泉寺本)。-以下本文は東泉寺本-(PC入力のため、「割注」とか「ルビ」の配列・配置が原典と異なる部分がありますが、ご容赦のほどを。)

       建長八年丙辰十月十三日薬師寺(ヤクシジ)シテ

       念佛ヲハシムコノトキ真佛(シンブチ)聖人(ヒシリ)(ケン)()(ヒシリ)

       (セン)信法(シンハウ) 俗名弥太郎 藤五殿下人男 出家後隨念 ソウシテ主従

       四人御上洛(ゴシャウラク)ノトキヤハキノ薬師寺ニツキタマフ御下向(オンケカフ)ニハ

            (改 頁)

(ケン)()(ヒジリハ)京ノミモトニ御トウリウ三人

       スナハチ御クタリトキニ真佛(シンブチ)上人(シャウニン)オホセニテ

       (ケン)智坊(チハウ)ノクタランヲハシハラクコレニトゝメテ

       念佛ヲ勧進(クワンシン)スベシトオホセニシタカヒテ(ケン)()

       ヒシリオナシキトシノスへニ御下向(ヲンケカウ)ノトキ権守(コンノカミ)

       トノ出家ノ後 圓善坊云云 ノモトニワタラセタマフ

       カノヒノヘタツヨリ ツチノヘムマニイタル

            (改 頁)

マテソウシテ三年コノアイタ薬師寺ヨリ

       稱名寺ニウツリタマフ正嘉二      コゝニ御ノホリ

       ノトキ(ケン)()ヒシリノ御ススメニテ権守(コノカミ)殿(トノ)

嫡子(チャクシ)袈裟(ケサ)太郎(タラフ)殿(トノ)

       出家して信願坊念仏(ネンブチ)法名(ホウミヤウ)

       出家(シュッケ)トモニ顕智聖ノ相傳(サウテン)ナリソノホカ

       御居住(コキョチュ)ノアイタニ念佛(子ンフチ)ニ入ル(ニン)(シュ)(ミヤウ)

帳事(チヤウノコト)

     (後 略)

 

【要旨】建長81256)年1013日、親鸞聖人の高弟真佛(しんぶつ)上人、(けん)()上人、(せん)信坊(しんぼう)と、その下人弥太郎(やたろう)(出家後(ずい)(ねん))の主従4人が、京都の親鸞聖人(当時84歳)のもとへ行く途中、矢作(やはぎ)(愛知県岡崎市)の薬師寺に立ち寄って念仏を始めた。

 上洛した後、顕智上人は京の聖人のもとに留まり、他の3人は東国へ向けて下向した。その際真佛上人は顕智上人に、「下向途中、三河に留まってお念仏を勧めなさい」と仰せられた。同年末、顕智上人は真佛上人の命に従って京都より三河へ下向。

 権守(ごんのかみ)殿(どの)(出家後(えん)善房(ぜんぼう))のもとに逗留(とうりゅう)。以後、正嘉(しょうか)21258)年まで3年間三河で教化に専念。その後称名寺へ赴かれた。この間、顕智上人は権守の嫡子・袈裟(けさ)()(ろう)に勧めて出家させ、(しん)願房(がんぼう)の法名を与えた。その他にも顕智上人滞在中に35人が信者になった。「名帳(みょうちょう)」のとおりとして、入信者の名前を列記。

例えば、監帳(ケンチャウ)次郎(シラウ)二人 三(ラフ)大夫(タユフ)二人 庄司太郎二人 (以下略)といった塩梅で、12組の記名が見受けられます。おそらくこのペアは夫婦か、あるいは親子かと思われます。いずれにしても、在家仏教・女人成仏をテーゼとする真宗門徒の教団なればこそという感一入。

本稿は、新発見の東泉寺本を基に(したた)めていますが、高田派の安藤章仁氏は、「新発見の古写本『三河念佛相承記』について」の論文の中で、東泉寺本と対比して「上宮寺で不明箇所三点が判明した」と指摘。原典の関係部分を以下に再録してみましょう。(ゴシック体が判明した部分)

       鶴宮(ツルミヤ)午前(コセン)  (オト)(ワウ)御前(コセン)一人ミナユウクンナリ

             ※上宮寺本では欠落 因みにユウクンとは白拍子・遊女(あそびめ)

タヽシ乙王御(  ニ)シサイアリカミノ袈裟(ケサ)太郎

トノトモニソウシテ三十五人也コノナカニ庄司(シヤウシ)太郎(タラフ)

トノ(ケン)()(ヒジリ)平田(ヒラタ)ニイレマイラセテ道場(タウチャウヲ)

タツ正嘉元丁巳イマクワゴセンソ也

         (中略)

三河(ミカハ)ヨリ(タカタ)へマイルヒトヒトノ事

  ※上宮寺本では「((ママ))」でが欠落

(ヒガシ)殿(トノ)御前(コセン)御年(オントシ)(サイ)トキ故聖ノ息女也 

※上宮寺本はワキ(人名)東泉寺本はトキ(時)

          (後略)

『三河念佛相承日記』は三河における真宗進出の初期段階を知る上で実に貴重な史料。まず「時」は、「建長八年丙辰十月十三日」。建長8年といえば1256年、親鸞聖人84歳の時。聖人は京都に居て、法然上人の言行録『西方(さいほう)指南抄(しなんしょう)』の上巻を書写していたことが判っています。同書の奥書は「(こう)(げん)元年丙辰十月十三日 愚禿(ぐとく)親鸞八十四歳書之」。年表で確かめると康元元年も1256年。どういう訳かといえば、建長8年は105日までで、6日からは康元に改元されたため。三河国は京都からは〝遠国〟、週日のタイムラグも(むべ)なるかな。なお、別件ながらこの年、聖人は自身の子・善鸞(ぜんらん)が東国で異義に傾いたため、彼を義絶。

「処」は矢作の薬師寺(ヤクシジ)。矢作川河床で薬師寺の瓦の一部が採取されているので、矢作に薬師寺が存在したことは証明ずみ。

次に「人」。三河の国念仏事始めのキー・パーソンは? いうまでもなく、建長81013日、上洛途中薬師寺に立ち寄って念仏を勧めた親鸞聖人の直弟子真佛上人・顕智上人ならびに專信房、そしてその下人弥太郎(出家後隨念)の主従4人。次に、京都から東国へ帰る途次、真佛上人の命を受けて二度にわたり三河に入り、権守殿(出家後圓善房)のもとで教化活動を展開した顕智上人。これがご縁で、権守殿の息子・袈裟太郎(出家後信願房)が入信。はたまた権守父子も加え、名帳記載の面々の同朋も、三河の念仏弘通の発端を担った人たちではなかろうか、と思いを巡らす次第。

かくして念仏者が念仏者を生み、三河真宗教団の礎が築かれたということでしょう。「柳堂伝説」が「言い伝え」であって〝史実〟ではないところから、三河の国の念仏の発端の〝史実〟を『三河念佛相承日記』に訊ねてみました。その結果、前記のように「時」「処」「人」の答えを得て、ここに三河の国念仏の嚆矢(こうし)を確認することができました。

合掌

2022/10/03  前住職 本田眞哉 記

                                                  

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