法 話

(260)「蓮如上人(30)


 


大府市S・E氏提供  



蓮如上人(れんにょしょうにん)三河教化(みかわきょうか)

  
 
 

前回、三河地方に親鸞聖人の念仏の教えが最初に伝えられたのはいつ頃、何処で、誰によってかということを、少々大袈裟ながら〝探求〟してみました。親鸞聖人が関東から京都へ帰る途中、矢作(やはぎ)柳堂(やなぎどう)で説法し、感銘を受けた人々が真宗に()()したと伝える「柳堂伝説」が「言い伝え」であって「史実」ではないというところから、三河の国の念仏の発端を「史料」に訊ねてみました。その「史料」とは、『三河念佛(みかわねんぶつ)相承(そうじょう)日記(にっき)』。その結果、前回記述のように「時」「処」「人」の答えを得て、三河の国念仏の嚆矢(こうし)を確認することができました。「時」は、建長81256)年1013日。「処」は、岡崎・矢作の薬師寺(ヤクシジ)。「人」は、親鸞聖人の直弟子の真佛(しんぶつ)(けん)()上人ならびに(せん)信房(しんぼう)、そしてその下人弥太郎(出家後(ずい)(ねん))の主従4人。

薬師寺での念仏(ねんぶつ)勧進(かんじん)以来、星霜積もって766年の今日に至るまで、三河における親鸞聖人の教え、延いては三河真宗教団の歩みは如何だったでしょうか。主従4人が説いた親鸞聖人の念仏の教えは、以後引き続き〝いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら〟の間に燎原の火の如く広がっていったことでしょう。『三河念佛相承日記』が二度にわたって書かれていることからも窺い知ることができます。そして、さらにその火勢が弥増す時機が到来したのです。それは親鸞聖人没後153年、蓮如上人の出現です。宗祖開宗後、第4代善如上人から第7代存如上人(蓮如上人の父)の間の本願寺は寂々としていました。そうした状況を目の当たりにした蓮如上人は、本願寺の再生に取り組もうと奮起。上人の教化・伝道にかける情熱の息吹が三河地方にも波及。

「三河の蓮如さん参りに行ってきた」とか「西端の『蓮如忌』にお参りした」と門徒さんが話しているのを子どもの頃聞いた記憶があります。当山から1㎞ほどのところにある境川を越せばそこは西三河。西三河には蓮如さんゆかりの真宗寺院が(あま)()点在しています。当地の公共交通機関は、当時も今も中核都市名古屋へ向けては利便性が高いものの、横軸方向といいましょうか、周辺地区相互の往来は極めて不便。従って、門徒さんも自転車での巡拝だったのです。

蓮如さんゆかりの寺を巡る企画や案内は、当該市や観光業者も力を入れているようです。しかし、「ゆかり」という表現には含みがあって、上人が実際にそのお寺に来山されて布教(ふきょう)されたことがあるのか、はたまた名号(みょうごう)等を下附(  ふ )して教化されたご縁を表しているのか、判然としません。前回既述の三河念仏の事始めを訊ねたケースでは、本稿頭書のとおり、親鸞聖人の高弟真佛(しんぶつ)上人はじめ主従4人が東国より上洛途上、矢作(やはぎ)の薬師寺に立ち寄って念仏を始めた「史実」が記載された古文書『三河念佛相承日記』が発見されており、その真偽を疑う余地はありません。

これに対して、蓮如上人が三河へ来駕(らいが)されたことについてはどうでしょう。出版物等の記録を調べてみました。読売新聞社発行『蓮如の生涯』「聖跡をたずねて」中では、「蓮如は坂東修行の帰途、三河に入った」と記されています。また、「蓮如上人が三河に巡化されて平成302018)年で550を迎えることを記念した企画展を開催いたします。(後略:碧南市教育文化課)」との記述も。さらに、兵庫教育大の論文『中世三河における真宗教団の展開』では、「(前略)この蓮如を支えた主要な地域的基盤が近江・北陸・東海、とりわけ三河であった」「三河真宗は蓮如の布教により、上宮寺(じょうぐうじ)本證寺(ほんしょうじ)(しょう)鬘寺(まんじ)が本願寺派に組み込まれ(後略)」と述べられています。

次に、作家には蓮如上人の三河(じゅん)(しゃく)はどのように受け止められているのでしょうか。『三河の真宗』(真宗大谷派三河別院発行)の中で()(つぎ)伸彦(のぶひこ)氏は「蓮如上人の三河巡教-〝海の民〟〝山の民〟と地獄の時代を生きる-」と題して一文を寄せています。「(前略)蓮如は、一代にして本願寺教団を日本最大の仏教宗派に発展せしめた、卓越した政治家です。その発展の根本の理由に、私は蓮如が、親鸞のこの悪人正機の教えを、正しく継承していたことがあると考えております。(後略)」。しかし、そのほか三河の地勢に触れた部分はあるものの、三河巡教に関わる段落はありません。タイトルの「三河巡教」に惹かれて注目したのですが、作家として史実を確認できないことは避けたのかも…。

では、蓮如上人の三河巡化に関して学識経験豊かな専門家のお考えはといえば、 三河の蓮成寺住職で、同朋学園仏教文化研究所の嘱託研究員の青木 馨氏は、「蓮如上人と東西分派」と題する小論の中で、次のように記述。

(前略)如光(にょこう)は応仁二年(一四六七)十一月一日に没するが、 実はこの年蓮如は三河を巡錫(じゅんしゃく)したといわれる。(中略)近江以東における本願寺教団の拠点として三河に注目したことは想像に難くない。(中略)三河滞在期間は決して長くはなかったようであるが、その意義は大きなものがあった。(後略)

 因みに、上記如光のプロフィール。

        如光は、 三河佐々木の上宮寺の僧。武門の出とか。蓮如上人の直弟子。寛正61465)年、比叡山延暦寺の衆徒によって大谷本願寺が破却されるという「寛正の法難」が惹起。如光上人は三河より急ぎ上洛して単身比叡山に乗り込み、奪われた親鸞聖人の御真影を取り戻したといわれます。はたまた、「山門ニハ問答ニ及、礼銭(末寺金)ヲ欲シガルナレバ、国ヨリ料足ヲバ足ニフマセン」と言ったとか。()(くん)広大(こうだい)

そうした功労に対して蓮如上人から「歸命盡十方无碍光如來(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」の十字名号や蓮如・如光の(れん)座像(ざぞう)を下附されたとのこと。また上宮寺末寺帳、通称「如光弟子帳」には、三河64、尾張31、美濃9、伊勢1の合計105カ所の末寺・道場が記載されているとのこと。

話が些か脇道に逸れてしまいましたが、三河の連如上人ゆかりの寺の「寺伝( じ でん)」では蓮如上人の三河巡化(じゅんけ)についてどのように扱われているのでしょうか。先ずは当山の本寺である本證寺。

本證寺は、鎌倉時代後期に慶円によって創建されたと伝えられる真宗寺院です。室町時代中期には蓮如の布教によって本願寺派に属し、岡崎市の上宮寺、勝鬘寺とともに真宗三河三か寺として大きな勢力を持ちました。(HPより)

 同じく三河の順慶寺(じゅんきょうじ)の略年表には「応仁二年(1468)連如上人三河に来られる。(六字名号を賜る)」と記載されています。また、同寺のHPには、

         順慶寺の歴史は、初代了往が蓮如上人に深く帰依し、天台宗であった寺を本願寺に転派し、親鸞聖人の教えをいただく、聞法道場として開基されました。

と寺歴を掲げています。

 ところで、web上で出遭った情報を一つ。杉浦某氏のブログ。

小さいとき祖父から蓮如さんのことを聞かされたことを覚えている。しかし蓮如が三河に来た事実はないとか言う学者もいた。さすが今はいないがそれでも1回限りと言う学者も多い。

以上蓮如上人の三河巡化についてチェックしてみたところ、「三河に入った」「蓮如上人が三河に巡化されて」「蓮如の布教によって」「三河巡化」「三河を巡錫したといわれる」「巡錫した」等々のフレーズが見つかりました。これらの文言は蓮如上人の三河巡教について、断定的なものと推測的なものとがあります。いずれにしても、それらが「史実」であるということを証明する「史料」となると果たして…。「伝承」の域を出ていないということではないでしょうか。私の力不足か、先輩諸師の証明資料に接していません。この拙論、未消化のままですが、次回へと繋ぐこととします。 

合掌

2022/11/03  前住職 本田眞哉 記

                                                  

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