法 話
(261)「蓮如上人(31)」
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大府市S・E氏提供 |
『蓮如上人の三河教化2』
前回、蓮如上人の三河巡化についてチェックして見ました。その結果、蓮如上人が実際に足を運んで三河地方を巡化されたという「史実」に巡り会うことはできませんでした。「伝承」の域を出ていないという結論に至らざるを得ません。しかしこの問題、何となく未消化の感は否めません。しつこいようですが、どこかで蓮如上人三河巡化の手がかり、否、足がかりが見つけられないかと、思いを巡らしました。その結果、頭を過ぎったのは「年表」。浄土真宗や蓮如上人関連の「歴史年表」。手許にある10編の年譜・年表等について、詮索してみました。
これらの年表等の中の、蓮如上人の巡化・下向・赴く・旅等の行実が記載されている記述をピックアップ。出典と当該事項等を列挙すると以下のとおり。
①
『真宗新辞典』(法蔵館)「真宗略年表」:1471(文明3)年 蓮如、越前に下る
②
『蓮如』(吉川弘文館)笠原一男著「略年譜」:1447(文安4)年 東国布教の旅にたつ 1468(応仁2)年 東国布教の旅から帰る 1471(文明3)年 越前国吉崎に赴く 1473(文明5)年 東国布教の旅、越中井波で引き返す
③
『蓮如上人御一代聞書讃仰』(東本願寺)細川巌著「蓮如上人略年譜」:1447(文安4)年 父存如と東国を旅行 1471(文明3)年 越前へ下向。
④
『蓮如上人行実』(東本願寺出版部)眞宗大谷派教学研究所編「蓮如上人年譜」:1447(文安4)年 父存如と東国へ赴く(通紀) 1449(宝徳元)年 父存如と北陸・東国へ赴く(一期記・拾塵記・通記) 1468(応仁2)年 東国へ赴き、帰路、三河土呂に本宗寺を建立(通紀) 1470(文明2)年 東国へ赴く(拾塵記) 1471(文明3)年 大津南別所から京都を経て、越前吉崎へ赴く(遺文二六・三〇) 1475(文明7)年 東国への途次、越中瑞泉寺に至るも、諸人群衆のため吉崎に戻る(拾塵記・賢心物語、一期記) 1486(文明18)年 出口から紀伊へ向かう(遺文一二一)
⑤
『特別展蓮如上人』(大谷大学図書館)「蓮如上人年譜」:1447(文安4)年 父存如と共に東国を遊化す(通記) 1449(宝徳元)年 父存如と共に北陸に下向す(遺徳記・一期記・拾塵記) 1468(応仁2)年 北国・東国に赴き、親鸞遺跡を尋ねる(通記) 1471(文明3)年 京都から越前吉崎へ下向す 1486(文明18)年 河内出口から紀伊へ向かう(遺文) 1495(明応4)年 富田へ下向す(空善記)
⑥
『蓮如五帖御文』(法蔵館)細川行信・村上宗博・足立幸子著「御文年表」:1468(応仁2)年 東国に赴く 1471(文明3)年 大津南別所から京都を経て越前に赴く 1486(文明18)年 河内出口から紀伊へ向かう
⑦
『蓮如上人の生涯と教え』(東本願寺)「蓮如上人略年譜」:1468(応仁2)年 北陸・東国布教に赴く/吉野に赴く
⑧
『念仏のこころ―蓮如と本願寺教団―』(読売新聞社)「蓮如略年表」:1449(宝徳元)年 東国布教の旅に立つ 1468(応仁2)年 二回目の東国布教
※『蓮如と本願寺』―その歴史と美術―(京都国立博物館編)「本願寺略年表」
『親鸞聖人と三河の真宗展』(眞宗大谷派三河別院)「三河真宗略年表」
には、該当する記載はありませんでした。
以上、蓮如上人が三河地方へ巡化されたことがあったかどうかについて、歴史年表の中で検証してみました。既にお解りのように、8編の年表のなかで、明確に三河への巡化・下向を記述したものはありません。ただ、玉虫色の記述が一件ありました。それは、眞宗大谷派教学研究所編・東本願寺出版部発行の『蓮如上人行実』掲載の「蓮如上人年譜」の「1468(応仁2)年 東国へ赴き、帰路、三河土呂に本宗寺を建立(通紀)」の一行。1468(応仁2)年の東国布教は他の年表等でも複数の記述が確認され、疑う余地はないでしょう。
しかし、「帰路、三河土呂に本宗寺を建立」のフレーズが気になります。三河地区での「巡化」とか「布教」の文言がなく、いきなり「建立」。「巡化」「布教」は一寺建立の前提として欠くべからざることであり、いうまでもない、ということでしょうか。いみじくも、本宗寺の公式ホームページには、次のように記載されています。
応仁2年(1468年) 本願寺第八世の蓮如上人が、三河巡化の折り、真宗繁盛の中心たるべき寺院として、額田郡土呂の郷に創建されました。蓮如上人につづき、第九世実如法主も本宗寺を拠点として三河門徒教化につとめられ、四男実如上人を本宗寺の初代住職に任ぜられました。
加えてもう一ヶ寺。三河西尾の正念寺のホームページには、
「三河の真宗寺院の約半数は連如上人の三河巡化をきっかけに建立されたものですが、正念寺もその一つ(後略)」と掲載されています。
ここでは「三河巡化」がはっきりと謳われています。三河地域の他の真宗寺院のホームページにも、屡々こうした文言が見受けられます。そのことを裏付ける古文書等のいわゆる「史料」が有るか無いかはさておいて、この時代に真宗の教えが三河、特に西三河一円に流布したことは間違いない事実。それを裏付ける一つの指標として、一円に寺基を置く真宗大谷派寺院の数を調べてみました。現在の行政区単位でカウントしてみたところ、次のような結果が得られました。基本としたデータがかなり古いものなので、不正確な数値かも知れません、悪しからず。
西三河 岡崎市 80ヶ寺 西尾市 53ヶ寺 碧南市 19ヶ寺
高浜市 6ヶ寺 安城市 34ヶ寺 刈谷市 18ヶ寺
知立市 9ヶ寺 豊田市 90ヶ寺 三好市 6ヶ寺
郡 部 43ヶ寺 合 計 358ヶ寺
東三河 豊橋市 7ヶ寺 豊川市 4ヶ寺 田原市 9ヶ寺
蒲郡市 10ヶ寺 郡 部 20ヶ寺 合 計 50ヶ寺
歴史的あるいは地域的要件に差があるかもしれませんが、この寺院数の東西三河の差には驚かされます。寺院数に比例して門徒数においても同様の差が発生しているものと思われます。「三河一向一揆」も西三河門徒の「数」と「信力」により惹起。信力は「一向専念阿弥陀仏」の熱烈な信心の力。因みに「信心」とは。本願を信じ疑わない心。信心は、如来の本願のはたらきにより衆生にあたえられた本願力廻向の信心。他力の信心。如来が衆生を救おうと誓われた他力真実の信心。「大学入試に合格しますように」とかいう願いをかける自力の信仰とは全く逆方向で、如来の方から衆生を救おうと私たち衆生にかけられた願い。この衆生にかけられた願いを信じる心が他力の信心。
西三河に数多真宗寺院が建立され、本願念仏の教えが燎原の火の如く広まった源を、上人自身の「巡化・布教」という「史実」に求めることには、いささか無理があるようです。しからば、他に考えられる要素は?
年表で上人の「巡化・布教」を詮索中に、屡々見受けた文言に「下附」がありました。「下附」「授く」等をキーワードに詮索を試みました。
①
『真宗新辞典』(記載なし)
②
『蓮如』「1461(寛正元)年 三河国佐々木上宮寺如光に本尊を下附す」「1468(応仁2)年 三河国教誓に本尊を下附す」「1482(文明14)年 親鸞御影を佐々木上宮寺妙光に下附す」「1486(文明18)年 三河の如慶尼に『親鸞伝絵』を下附す」
③
『蓮如上人御一代聞書讃仰』(記載なし)
④
『蓮如上人行実』「1468(応仁2)年 三河佐々木上宮寺如光歿/
蓮如、如順に蓮如・如光連座像を授く」
⑤
『特別展蓮如上人』「1461(寛正2)年 三河佐々木上宮寺如光へ十字名号を下附す」「1468(応仁2)年 六字名号を志貴庄西畠道場恵薫へ下附す/六字名号を三河野寺教誓へ下附す」「1475(文明7)年 方便法身尊像・親鸞聖人御影を三河無量寿寺了順へ下附す」「1476(文明8)年 方便法身尊像を三河本証寺光存へ下附す」「1484(文明16)年 方便法身尊像を三河高津波慶宗へ下附す」「1485(文明17)年 方便法身尊像を三河無量寿寺へ下附す」「1486(文明18)年 方便法身尊像を三河八橋性厳へ下附す/親鸞聖人絵伝を三河佐々木上宮寺如慶尼へ下附す/自像を三河矢作浄覚へ下附す」「1489(延徳元)年 方便法身尊像を三河西畠恵薫へ下附す/方便法身尊像を三河碧海郡三木浄欽へ下附す」「1491(延徳3)年 自影を三河西畠恵薫へ下附す/自影を三河浄妙寺慶順へ下附す」
⑥
『蓮如五帖御文』「1468(応仁2)年 三河志貴庄野寺の教誓に六字名号本尊を授く/如光没し、如順に蓮如・如光の連座像を授く」「1482(文明14)年 三河上宮寺如順に宗祖御影を授く」「1484(文明)16年 三河矢作勝蓮寺善慶に寿像を授く」「1491(延徳3)年 勝鬘寺門徒矢作の善明に宗祖の御影を授く/上宮寺門徒西畠道場恵薫に寿像をく」
⑦
『蓮如上人の生涯と教え』(記載なし)
⑧
『念仏のこころ―蓮如と本願寺教団―』(記載なし)
沢山の名号・本尊・御影等が蓮如上人から寺院・門徒に下附されています。実際の数は、年表に記載された数の数倍はあろうかと思われます。しかもこの詮索は三河関係のみ、全国レベルではさらに大きな数の名号等が下附・授与されていることでしょう。1992に朝日新聞社から出された『親鸞と蓮如』に興味ある数値が記載されています。タイトルは『蓮如の布教』―本尊と画像の発給数―。地図と画像で表示されています。発給された本尊数と画像数を地図上にグラフで表すという方式。本尊数で最多は近江の41、次に美濃の24、三番目は尾張の18、続いて三河の17。画像数では、トップに近江・加賀の27、次は三河で18、続いて越前の17、河内の13。尾張は11で6番目。
地図上に示された本尊・画像数記載の他の主な地域としては、摂津・京都・美濃・越中・信濃等の国々が挙げられています。こうしたことから、蓮如上人の三河地区の教化・伝道は、上人自らの巡化・布教という足跡が希少でも、名号本尊や絵像の下附というかたちで三河門徒の間に聖人の教えが弘まって、三河の真宗教団の礎が築かれたと思われます。一方、別の角度から見れば、「下附」に対しては「志納」の側面がありましょう。蓄積した財力は約100年後に起こった三河一向一揆の財的側面を担ったのかも。
なお、本シリーズ251回でも取り上げましたが、蓮如上人の『御文』は、名号や絵像の下附に勝とも劣らない聖人のオリジナル文書伝道。漢字交じりのカタカナ文の聖教『御文』は、庶民の間にも急速に普及し、本願念仏の教えの敷衍に大いに貢献しました。現在も法座の折に拝読されています。
合掌
2022/12/03 前住職 本田眞哉 記