法 話
(263)「蓮如上人(32)」
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大府市SE氏提供 |
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蓮如上人(1415~1499)といえば『御文』、『御文』といえば蓮如上人。このシリーズでも『御文』について複数回記しました。一帖目第一通「門徒弟子の御文」、一帖目第九通「物忌みの御文」、一帖目第十一通「電光朝露の御文」、同じく第十五通「宗名の御文」。四帖目第十五通「大坂建立」。五帖目では、第一通「末代無智の御文」、第十通「聖人一流の御文」、第十五通「阿弥陀如来本願の御文」、そして同じく第十六通「白骨の御文」。記述内容に照らして、それぞれ引文させていただきました。『御文』の成り立ちにつきましては既述したところですが、今一度レビューしてみます。なお、上人最後の御文ということと、本文を読みやすい原典に替えるとともに、前回の内容の補足・修正といった意味合も含めて、「大坂建立」を再びテーマとすることとしました。
『御文』は、真偽未決のものを除いて総数332通が伝えられています。1471(文明3)年から1498(明応7)年までの58通と年次不明の22通、合わせて80通を五帖に編集したのが『五帖御文』。他に編集されていない『帖外御文』252通、そして『夏の御文』4通と『御俗姓』1通があります。『蓮如上人御一代聞書』第一二四条には、
「『御文』は、如来の直説なり」と、存ずべき由に候。「形をみ れば法然、詞を聞けば弥陀の直説」と、いえり。
とあります。ということは、上人自身『御文』と呼んでいらっしゃったということでしょう。一説には、生前上人自ら集録を試みられたのではないかと、推測する向きもあるようです。こうした上人自身の願いを窺いつつ、後を継がれた五男・本願寺第九代実如上人(1458~1525)並びにその息男・円如上人(1491~1521)の父子が協力して、集録・編集されたのです。その後更に編纂・修正が行われて、実如上人の孫・本願寺第十世証如上人の代、1537(天文6)年に開版される運びとになりました。開版をみたことによって、親鸞聖人の教えが間違いなく一般庶民に弘められることになり、その成果は絶大なものでした。
『五帖御文』の編集に当たっては、五帖目が最初に編纂されたのではなかろうか、とおっしゃる向きもあるようです。私も同感。編集の基本方針がどうであったか分かりませんが、大雑把にみて一帖目~四帖目は教団組織あるいは教団運営に関わる御文が集録されている一方、五帖目は宗意安心をテーマとして集められたのではなかろうか、と窺われます。その後『御文』の版は重ねられ、五帖目が単独で幾度も上梓されたようです。門徒宅のお内仏本体に設えられた御文箱は、概ね一帖分の大きさ。中には五帖目が一冊。別仕立てで全五帖仕様の御文箱を整えていらっしゃる門徒宅もありますが、当山門徒では稀で、数戸。
ところで、上人が初めて御文を書かれたのはいつごろだったのでしょうか。1461(寛正2)年3月に書かれた御文が帖外御文の第一通にあります。これは「筆始めの御文」といわれています。上人47歳の時。金森の道西の請いに応えて書かれた御文とのこと。因みに同年9月、上人は三河の国佐々木上宮寺如光に本尊を下付しています。また同10月、(三河の)安城御影を修復しています。以後、還浄前年の84歳まで、三十数年余に亘り連綿と書き続け、門弟や〝在家止住〟の人々の身近に宗祖親鸞聖人の教えを弘められたのです。今でいう「文書伝道」の先駆といえましょう。
一方、上人が最後に書かれた御文はといえば、 1498(明応7)年11月21日に書かれた四帖目第十五通「大坂建立の御文」。長文ですが以下に引用しましょう。
【本文】抑当国摂州東成郡、生玉の庄内、大坂という在所は、往古よりいかなる約束のあるけにや、さんぬる明応第五の秋、下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、当年ははやすでに三年の星霜をへたりき。これすなわち往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。それについて、この在所に居住せしむる根元は、あながちに一生涯をこころやすくすごし、栄花栄耀をこのみ、また花鳥風月にもこころをよせず、あわれ、無上菩提のためには、信心決定の行者も繁盛せしめ、念仏をもうさんともがらも、出来せしむるようにもあれかしとおもう一念のこころざしをはこぶばかりなり。またいささかも世間の人なんども、偏執のやからもあり、むつかしき題目なんども出来あらんときは、すみやかにこの在所において、執心のこころをやめて退出すべきものなり。これによりていよいよ貴賤道俗をえらばず、金剛堅固の信心を決定せしめんこと、まことに弥陀如来の本願にあいかない、別しては聖人のご本意にたりぬべきものか。それについて、愚老すでに当年八十四歳まで存命せしむる条、不思議なり。まことに当流法義にもあいかなうかのあいだ、本望のいたりこれにすぐべからざるものか。しかれば愚老当年の夏ごろより違例せしめて、いまにおいて本腹のすがたこれなし。ついには当年寒中には、かならず往生の本懐をとぐべき条、一定とおもいはんべり。あわれ、あわれ、存命のうちに、みなみな信心決定あれかしと朝夕おもいはんべり。まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。またはこの在所に三年の居住をふる、その甲斐とおもうべし。あいかまえて、この一七か日の報恩講のうちにおいて、信心決定ありて、我人一同に、往生極楽の本意をとげたもうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
明応七年十一月二十一日よりはじめて、これをよみて人々に信をとらすべきものなり。
東本願寺出版部発行『眞宗聖典』より
【現代語】さて、当摂津の国、東成郡生玉の庄内の大坂という土地は、昔よりどのような約束があったのでしょうか、去る明応五年九月下旬の頃に、初めてほんの少しこの地を見てから、この一棟の御堂を建立し、もう早くも三年の月日が経ちました。これも昔からの因縁が浅くないからだと思います。それにつけても、この土地に暮らしている理由は何かといえば、何も強いて一生涯を安穏に暮らし、富や地位を得て華々しく暮らし、花鳥風月を愛でて楽しむためではありません。ああ、どうかこの上ない菩提のためには、信心決定する行者が増え、念仏もうさん輩も出てきて欲しいと深く願うばかりです。一方、世間の人の中にはこの地で暮らす人々を妬む偏執の人が無理難題を言い出すことがあれば、速やかにこの土地に対する執着のこころを棄ててこの土地を後にすべきです。したがって、いよいよ貴い者と賤しい者、出家者と在家の者を選別せず、金剛のように堅い信心を決定することが、まことに弥陀如来の本願にもかない、わけても親鸞聖人の御心にもかなうものではないでしょうか。それにつけても、私も当年とって八十四歳まで生かさせていただいたことは不思議なことです。その生涯の中で法義相続に尽くすことができたのは、当流の自信教人信の教えにも叶うこと、本望のいたりでこれに勝るものはありません。そうしたなか、私も今年夏ごろより病気になり、いまだに本復の兆しがありません。ついには寒中には必ず往生の素懐を遂げることは間違いないと思っています。ああ、私の命のあるうちに、みなさんが信心を決定してくれれば、この大坂で三年居住した甲斐もあったと、終日思っています。必ずや、この一七か日の報恩講のうちにおいて信心決定して皆々そろって往生極楽の本意を遂げなければなりません。
明応七年十一月二十一日より、これを読み聞かせ信心を得させるべきです。
蓮如上人84歳、1498(明応7)年11月21日に書かれた「御文」。「大坂建立の御文」と呼ばれています。11月21日といえば、宗祖親鸞聖人の御正忌報恩講の入の日。因みに、本山・東本願寺の報恩講の日程は、聖人の命日・11月28日を「御満座」(最終日)として「一七か日」厳修されます。「一七か日」とはいうものの、初日の「初逮夜」は午後、最終日の「御満座」は午前に厳修。従って、正味日数は7日間となりますが、暦日では8日間に及びます。これを「七昼夜法要」といい、11月21日はその初日に当たります。
「報恩講」は全末寺においても毎年勤修されます。ただし、一七か日勤修の寺は稀で、長くて五昼夜。名古屋の東別院も五昼夜厳修。戦前は当地方でも五昼夜勤修の末寺もありましたが、最近はほとんど無くなり、三昼夜から一昼夜へと短縮されています。中には1日だけ勤修の末寺も。名古屋市内などでは、「永報」とかいって午前に「永代経」、午後「報恩講」といった1日プログラムもあるとか。職業の違いによって二世代別住の傾向が強くなって半世紀、二世代・三世代同居家庭は稀。勢い、寺参り・報恩講参りは老夫婦か親世代夫婦。地方によっては、結婚した若夫婦が晴れ着姿で報恩講参りをする慣わしがあるとか。いずれにしても報恩講の参詣者は漸減傾向。そこへ追い討ちをかけたのがコロナ禍、当山の報恩講も参詣者が激減。
話が報恩講へと流れてしまいましたが、本題へ戻しましょう。蓮如上人は、明応七年夏不例の気ましまして、11月に迎える報恩講は今生最後の報恩講になるのではないかと危惧の念を抱きつつ、この御文を書かれたものと思われます。事実上人は翌1499(明応8)年3月25日85歳で命終されました。そもそもこの御文が「大坂建立の御文」と呼ばれる元は、冒頭の文章にあります。「抑当国摂州東成郡、生玉の庄内、大坂という在所は、(中略)すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、当年ははやくすでに三年の星霜をへたりき。」つまり、大坂という在所に、一棟の念仏道場を建立してからはや三年経ったという史実に基づいて名付けられたのでしょう。
合掌
2023/02/03 前住職 本田眞哉 記