法 話
(264)「蓮如上人(33)」
大府市SE氏提供 |
前回、蓮如上人が最後に書かれた御文、 明応七年十一月二十一日の年紀が誌された、四帖目第十五通「大坂建立の御文」について記しました。同じく四帖目第十三通には「病患の御文」が収録されています。一方、『空善記』99条には「同(明応)七年の夏よりまた御違例にて御座候間」とあります。11月に迎える報恩講は今生最後の報恩講になるのではないかと危惧の念を抱きつつ、この御文を書かれたといわれます。上人は1499(明応8)年3月25日に命終されていますから、その前年のこと。身体的にも精神的な面でもかなりダメージを負っていらっしゃったのではないでしょうか。「病患の御文」を以下に引用してみましょう。
※『空善記』:空善が書いた日記。空善は播磨国法専坊の人。蓮如上人の門弟
【本文】それ秋去り春去り、すでに当年は明応第七、孟夏中旬ごろになりぬれば、予が年齢つもりて八十四歳ぞかし。しかるに当年にかぎりて、ことのほか病気におかさるるあいだ、耳目・手足・身体こころやすからざるあいだ、これしかしながら業病のいたりなり。または往生極楽の先相なりと覚悟せしむるところなり。これによりて法然聖人の御詞にいわく「浄土をねがう行人は、病患をえて、ひとえにこれをたのしむ」(『伝通記糅鈔』)とこそおおせられたり。しかれども、あながちに病患をよろこぶこころ、さらにもっておこらず。あさましき身なり。はずべし、かなしむべきものか。さりながら予が安心の一途、一念発起平生業成の宗旨においては、いま一定のあいだ、仏恩報尽の称名は、行住座臥にわすれざること間断なし。これについて、ここに愚老一身の述懐これあり。そのいわれは、われら在所在所の、門下のともがらにおいては、おおよそ心中をみおよぶに、とりつめて信心決定のすがたこれなしとおもいはんべり。おおきになげきおもうところなり。そのゆえは、愚老すでに八旬のよわいすぐるまで存命せしむるしるしには、信心決定の行者繁盛ありてこそ、いのちながきしるしともおもいはんべるべきに、さらにしかとも決定せしむるすがたこれなしとみおよべり。そのいわれをいかんというに、そもそも、人間界の老少不定のことをおもうにつけても、いかなるやまいをうけてか死せんや。かかる世のなかの風情なれば、いかにも一日も片時も、いそぎ信心決定して、今度の往生極楽を一定して、そののち、人間のありさまにまかせて世をすごすべきこと、みなみなこころうべし。このおもむきを心中におもいいれて、一念に弥陀をたのむこころを、ふかくおこすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
明応七年初夏中旬第一日八十四歳老納書之
弥陀の名を ききうることの あるならば 南無阿弥陀仏と たのめみなひと
【現代語】さて、秋も去り春も去って、今年は明応七年四月も中 旬となりました。私も歳を重ねて八十四歳。ところが当年になってからは、病気に冒されて耳目も手足もからだも思うように動きません。これもみな業の報いの病、あるいは往生極楽の前触れだと覚悟しています。それにつけても、法然聖人が著された『伝通記糅鈔』の御ことばには「浄土を願う人は、病気を患っても、浄土往生が近いとこれを楽しく思う」とあります。しかしながら、私には強いて病気を喜ぶ心境にはなれません。実に浅ましい我が身であります。恥ずかしく悲しい思いでいっぱいです。私には病気を喜ぶこころは一向に起こりません。それでも私は平生に興す一念に往生が定まると説く当宗の教えにおいて、自身の安心ひとすじを今に確かと定めております。これにつけても、私一身のやるせない想いがあります。その訳はといえば、私どもが暮らし逗留したあちこちの門徒の方々の心中を窺ってみると、切実に信心を決定している様子が見られません。大変悲しく思うことでございます。というのも、私がすでに八十を過ぎるまで生きながらえさせていただいたしるしには、信心を決定した行者が沢山あってこそ、命長らえた甲斐があるというもの。なのに、全くしっかりと信心を決定する様子が見受けられません。どうしてこんなことを言うのかといえば、そもそも、人間界の老少不定のことを思うにつけても、いかなる病を患って死ぬのか分かりません。こうした世の中ですので、是非とも一日でも一刻でもはやく信心決定してこの度の往生極楽を定め、その後に、人間の有りように世を過ごすことが肝要です。一同皆々心得るべきです。こうした趣意をこころに思い、一念に弥陀をたのむこころを深くおこすべきです。あなかしこ、あなかしこ。
明応七年四月十一日、八十四歳の老僧がこれをかきました。
弥陀の名を聞くことがあれば、誰もみな南無阿弥陀仏のいわれのままに順い、おたすけあるのみだとおたのみください。
※法然聖人:親鸞聖人の師匠。浄土宗の開祖
以上が四帖目第十三通の「病患の御文」。四帖目第十五通「大坂建立の御文」と同じ明応七年に書かれた御文。蓮如上人84歳の夏。「病患」の文字が御文の名としては何か異様な印象を受けます。文頭にも記しました「御違例」な体調からすれば宜なるかな。上人が強健な身体の持ち主であったことは言を俟ちません。以前にも記したところですが、上人は第一夫人から第五夫人の間に13男14女、計27人のお子を授かっています。五人の夫人は全て正妻で、婚外児は一人もありません。因って来たるところは何かといえば、五人の夫人全てが30歳~33歳で早逝されていることにあります。
第五夫人との間に生まれた第七子・十三男・実従上人は、1498(明応7)年に出生しています。ということは、上人が84歳の時の慶事、驚愕の至りです。上人は翌年3月25日に浄土往生されているのです。当時の医学・薬学がどんな状況であったかは知る由もありませんが、強健であった上人が翌年3月25日命終されたところから推せば、〝潜伏〟していた癌?の病状が急激に悪化したのかも…。蛇足ながら、『空善記』のその他の記述には「疫病」を除いて「病」の文字は見当たりません。
翻って、文頭に引用した『空善記』の「同(明応)七年の夏よりまた御違例にて御座候間」の「また」が気にかかるところ。一方、同じく『空善記』110条には「四月の初比より 去年のごとく また 御違例にて、慶道御薬師に
まいり候。なからい 参候。(中略)きこしめし候物は おもゆばかりなり」と記録されております。後に続く文脈から推して、「四月」は明応七年に間違いないと思われます。となると、「去年」は明応六年ということで、「また」の意趣とも符合することに。要するに上人は、明応六年ごろから「御違例」の兆しがあり、同七年十一月の宗祖親鸞聖人のご命日を期して勤められる「報恩講」が気がかりだったのです。
※なからい:一族。親類
※きこしめす:召し上がる
因みに、たびたび出てきました「御違例」の文言、現代社会において使うことはまさに「違例」なことなのかも…。では改めて「違例」とは? ウェブ辞書によれば、
① いつもと違うこと。また、そのさま
② からだの調子が平常と違うこと。貴人の病気。不例
「不例」といえば、本願寺第三世・覚如上人が著された「親鸞絵伝」の有名なフレーズを思い出します。正式名称は「本願寺聖人伝絵」。その「下末」に
聖人弘長二歳 壬戌 仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。自爾以来、口に世事をまじえず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらわさず、もっぱら称名たゆることなし。しこうして同第八日午時、頭北面西右脇に臥し給いて、ついに念仏の息たえましましおわりぬ。時に頽齢九旬に満ちたまう。
※頭北面西右脇:横臥したとき、頭を北にして顔面を西に向けると、右脇が下になる状態。釈尊のいわゆる「寝釈迦」も同じスタイル
※頽齢:心身の衰えた年齢
※九旬:九十
本願寺第三世の覚如上人は、宗祖親鸞聖人のご臨終の様子を詳しく記述しています。改めて「不例」とは何かといえば、貴人の病気のこと(辞林21)。蓮如上人の場合は「違例」、親鸞聖人には「不例」。いずれも貴人の病気を指していますが、どういう訳で使い分けられているのでしょうか。何か意味があるのでしょうか。「そんなに拘らなくてもいいじゃない?」とのお声も…。「まあいいっか?」
お粗末なending で失礼!
合掌
2023/03/03 前住職 本田眞哉 記