法 話


(265)「蓮如上人(34)

 


大府市SE氏提供  
  


 

病患(びょうかん)の日々



本願寺第八世・蓮如上人が『御文』という教化アイテムを発案し、宗祖親鸞聖人の本願他力の教えを、普く門徒に弘められた功績は実に偉大。〝本願寺中興の祖〟といわれる所以。『御文』は総数332通が伝えられていますが、1471(文明3)年から1498(明応7)年までの58通と年次不明の22通、合わせて80通を五帖に編集したのが『五帖(ごじょう)御文(おふみ)』。その四帖目第十三通は「病患(びょうかん)の御文」。「予が年齢つもりて八十四歳ぞかし。しかるに当年にかぎって、ことのほか病気におかさるるあいだ、耳目手足身体こころやすからざる…」と記述。末尾には明応七年の記載。上人往生の前年。さすが強健な上人も「病患」の重さをひしひしと感じ、御文に(したため)められたのでしょう。

 翻って、私こと「病患」のご縁を戴きました。(ごう)(えん)かな? 時は2022(令和4)年1213日。ところは名古屋市緑区大高町の南生協病院。家内(坊守)の外科治療のため外来受付へ。先ずは玄関大ホールで検温。エエッ? 二人とも発熱あり、緊急外来へ。鼻腔へ綿棒を差し込まれて検体採取。しばらくの待ち時間の後、二人とも新型コロナウイルス「陽性」。整形外科診療は取り止め。薬局で薬を受けとり即帰宅。何かキツネにつままれたような感じで、実態が受け入れられません。よそ事だと思っていたコロナが、我が家にも侵入してきたのです。

 自宅療養するしかないか、と床についたり起きたり。私自身の病状はほぼ横ばいの状態でしたが、家内の方は14日・15日と咳も酷くなり病状悪化。16日になっても改善の兆しはなく、事態は深刻化。そうそう、血中の酸素濃度が低下すると危険、オキシメーターとかいう器具で計ると分かるとか。早速薬局に尋ねて見ると在庫切れ。他の薬店に電話するも、何処もゼロ。そうだ、保健所で貸し出しているとのニュースがあったっけ。保健所へ問い合わせたところ、貸し出し用があるとのことで、婿殿にメッセンジャー役を依頼。

 オキシメーター到着、即測定。まずは私。数値は9899%。次いで家内。測定値は? おやおや! 8889%。ヤバイ! 正常値は96%以上とか…。俗説かも知れませんが90%を割ると危険だとか。相変わらず咳は酷いし…。救急搬送をお願いしよう! 119番通報。救急車到着。私自身はコロナ発症中のため救急現場へ行くことができず、自宅内で待機。しかし、一向に救急車が動き出した気配なし。後刻現場に立ち会った人から聞いたところでは、搬送先病院の受け入れ交渉が難航し40分ほど時間を要したとのこと。

 最終的には名古屋市緑区の南生協病院が受け入れていただき、一件落着。とはいえ、ここが難路の出発点。入院したのは4Fの重症病棟。入院後どれだけの時間が経過したか定かではありませんが、本人の言では〝幻想〟をみたとか。白装束の数人が無言・無表情で天井でグルグル回っていたとのこと。息苦しいこともなく、痛いところもなく、静かな展開だったようです。本人曰く「あのまま死ねれば幸せだと思った」と。病状は一進一退で数日が経過。大学で教鞭を執る次男がTV電話を企画。病棟の看護師と打ち合わせをして24日(土)の後、TV通話をset up

タブレットに映し出された家内の顔は、酸素吸入はしているものの、意外と元気そう。自坊に私・子・孫数名が集まり、静岡の大学で学ぶ孫はスマホで現地から参加。小さい画面に顔を順番に出して一言、二言。長時間になるといけないので、と20分ほどでOFF。比較的元気な表情をカメラ越しとはいえ見ることができ、ホッ。しかし、その直後病状は悪化。肺は真っ白、酸素供給量もMAX。主治医からは〝覚悟〟を求めるメッセージ。最早〝絶望〟以外ない。年末調整の事務も手が着かず、Xmasは賑わいが帰ってきたと騒ぐ〝世間〟の声は、上の空というよりは憎々しく脳みそに響く。ところが、週が明けて事態は急転。主治医から長女の携帯に朗報。病状が急速に回復した、とのこと。

 危篤状態から脱した家内、どんな身体状況か、話はできるのか、意識は大丈夫か、ボケはないか、気は逸っても確かめようがない。と、そこへ病室が5Fに代わったとの情報。症状が改善した証だろうと推測。まさにそのとおり。ひとりでトイレに立つことを皮切りに、リハビリが始まったとのこと。酸素ボンベを背負って歩行器を推して病棟廊下でウォーキング。50mから100m、100mから200mに、200mから300mへと距離を伸ばして奮闘。真剣な取り組みを見た看護師さんからは拍手が沸き起こったとか。かくして体力・気力が復活するなか、病室が6Fに引っ越しすることに。

コロナ以降、病院も福祉施設も家族等の面会は一切御法度。週2のペースで長女が病院へ赴き、病棟入り口で洗濯物や必要なものを受け渡しする方式が定着。この方式は、4F5F6Fの場合も同様の扱いでしたが、6Fになってからは重苦しい雰囲気も消え、気楽に情報交換ができたとのこと。私自身も正月連休明けころから、山内の近況や〝ニュース〟について走り書きした手紙を長女に託して週2回ほど発信。1月中旬には退院後のリハビリに関して、家庭内で相当距離の歩行スペースがあるかどうかとの問い合わせがあり、建築図面のコピーを提示。こうしたことから、〝退院が視野に入って来たな〟と勝手に解釈。

このころから、家内のある行動が病棟内のスタッフの間に波紋を広げていったとか。それは毎度の〝完食〟。量が多いかなと思う夕食も、元来嫌いな人参も美味しく?完食。「完食の本田さん」と病棟内で「勇名」?を馳せたとか。勇名はともかく、完食のおかげで容態が改善し体力が急速に回復したのも事実。かくして、退院が現実味を帯びてきたものの、カレンダーが2月に代わってもそれらしき声が聞こえてきません。先生からもスタッフからも…。2月も3週目に入ったころ、しびれを切らしこちらから観測気球を上げてみました。すると、看護師さんから反応があり、退院は222日に決定。Very Good !

実は226日(日)に重要な法要が予定されていたのです。 226日といえば、二・二六事件の日。1936226日から29日にかけて起きた、日本のクーデター未遂事件。余談はさておき、当山も施主も昨秋来この日のために諸般の準備を進めてきました。では、その施主はどなたかといえば、当山最古のご門徒(檀家)の永井家。永井家の初代正直氏は、小牧・長久手の戦いで戦功を挙げた戦国武将永井直勝(15631625)の長男で1585(天正13)年生まれ。一方、当山の開創は、開基良空法師が住職に就任した1522(大永2)年。

ということから、当山と永井家との寺檀関係は、当山の二代目良賢法師(1606〈慶長11〉年没)代に始まったとものと思われます。500年を経た今日でも、永井家と当山とは世代がほぼ一代ズレています。永井家当代は十五代、当山は私で十六代。永井家十五代素夫氏は東京在住。慶應義塾大学卒業後、1977(昭和52)年4()日本興業銀行に入行。20114月みずほ信託銀行代表取締役副社長兼執行役員就任。同行理事を経て、20196月からは日産自動車株式会社社外取締役、並びに日清製粉グループ本社社外取締役。このように、永井素夫氏は日本経済の中心企業で活躍中ですが、遡って永井家系譜の中には様々な分野で活躍して実績を上げ、名を馳せた方々が数多。一部を以下に抄録しましょう。

 永井家500年の歴史の中で最大の功労者は、何といっても初代正直氏。誉れ高き武将の道を棄て、生まれ故郷の緒川村を後に新天地を求めて牛毛村へ。地の利を生かした農業・製塩業に挑んだエネルギーたるや半端ではない。牛毛荒井の地は、現在の名古屋市南区、国道1号線が天白川と交わる大慶橋の辺り。500年前の地形は川ではなく、広大な海辺が広がっていたのでしょう。でなければ、広大な塩田を設けることは不可能。正直氏は、地の利を上手く生かすとともに、製塩に関するノウハウにも長けた御仁だったと思われます。かくして製塩業は大成功。こうした業績に因み、正直氏の院号法名は「潮岸院」。名古屋市内に残る「塩付街道」とか「塩付通り」も荒井から塩を運んだ街道の名残とか。長野県の「塩尻」もその延長線上にあるのかも…。

 時代は下って、第十二代は永井(まつ)()衛門(えもん)氏(18541913)。十一代永井(まさ)(たけ)氏の次男として、尾張藩領愛知郡牛毛荒井邨で出生。藩校明倫堂で和漢学を修学。1872(明治5)年、家督を相続。同年、愛知病院創立委員を務め同院の幹事に就任。豊橋に第八国立銀行を設立し、取締役兼支配人に就任。1878(明治11)年に開催の天覧博覧会では幹事。活版事業にも進出。『愛知絵入新聞』を創刊。一方で愛知県会議員に当選し政界入り。また、生命保険会社や海運・貿易会社の社長や取締役等も歴任。傍ら1890(明治23)年の第一回衆議院選挙に愛知2区から当選。衆議院議員を通算2期勤めました。

 続いて第十三代は永井松三氏(18771857)。第一高等学校から東京帝国大学へ。1902(明治35)年外務省入省。天津、ニューヨーク、ワシントンDCに在勤。駐サンフランシスコ総領事,ドイツ大使、ベルギー大使などを歴任し19301932年外務次官。1919(大正8)年にはパリ講和会議に出席。1937(昭和12)年、第12回東京オリンピック大会事務総長。1939(昭和14)年6月にIOC委員。国際連盟の日本代表、ロンドン軍縮会議の全権代表。貴族院議員。以上のように、永井松三氏は日本の外交面で大活躍。法名は永薫院釋松影。享年80歳。

 永井家世代当主ではありませんが、ユニークな文人が永井家一統から排出されています。その人の名は、永井荷風(かふう)18791959)。第十三代松三氏の従兄弟。本名は壮吉。幼少期は病弱で転地保養も。1903(明治36)年、父久一郎のはからいで渡米し、ハイスクールで語学を修学。その後、松三氏や父の配慮を受けてフランスのリヨンへ。帰国後「あめりか物語」「ふらんす物語」を発表。1937(昭和12)年慶応大学教授となり「三田文学」を創刊。同年「濹東綺壇」。12年文化勲章、29年芸術院会員。反時代的姿勢で隠遁生活。79歳で命終。

 永井家の著名人のことで話が脇道に逸れてしまいましたが、本題へ戻しましょう。時は2023226日。午後2時、予定通り永井家十五代当主永井素夫氏が、ご令閨と長男ご夫妻を伴って来山。しばし休憩の後本堂へ。先代ご夫妻の遺骨を尊前に安置して、永井家墓碑建立報告法要を勤修。法要終わって墓地へ。当山墓地には永井家一統専用の区画があります。横17m、奥行8m、面積136㎡。分家、傍系の墓碑もありますが、本家では一代ごとに墓碑を一基建立することがご家例。初代正直「潮岸院」殿から十三代松三「永薫院」殿まで、同じ形で同じ大きさの墓碑が整然と並んでいます。

 父邦夫氏没後26年、二十七回忌に当たって素夫氏が一念発起、十三代「永薫院」の墓碑の隣に新しい墓碑を建立。ただ、この度の墓碑は時勢を鑑み、十四代のみならず、以降累代の骨も収納できる墓としました。したがって、墓碑正面は「南無阿弥陀佛」、右側面には累代故人の情報を刻銘。背面は「令和五年二月建之 第十五代永井素夫」と記銘。家族4人の手で邦夫氏ご夫妻のお骨を納骨。立華・立燭して勤行を執行。勤行中に順次焼香。ここに遺骨御移徙(ご い し)報告法要が無事(えん)(じょう)。当主は東京世田谷在住のこととて、度々は大変でしょうが、折角のご縁を戴きましたので、時折当山参詣と墓参のほどよろしくお願いいたします、とごあいさつ申し上げて散会。

合掌

2023/04/03  前住職 本田眞哉 記

                                                  

  to index