法 話
(266)「蓮如上人(35)」
![]() |
|
大府市SE氏提供 |
『念仏成仏』
「真宗の教えとは、一口でいってどういうことですか」というお尋ねを屡々お受けします。「一口」でいうことは難儀なことですが、敢えていえば「念仏成仏是真宗」ということになりましょうか。「念仏してお浄土で仏になる、これが真宗の教え」ということ。金子大榮氏の法話の講題として名を馳せていますが、原典は宗祖親鸞聖人のライフワーク『教行信證』。また、同じく親鸞聖人が作られた『和讃』の中でも謳われています。(『浄土和讃』)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真化をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
【趣意】念仏往生の願があることによって、念仏一つで往生の身となり仏とならしめられる教えこそまことの筋道であり、諸善万行を励んで仏に成りたいと願うのは、衆生の体質をよくみて誘引しようとする仮に設けたてだてであります。
方便の善と真実の誓願との違いをはっきりとわきまえないから、こちらのつくった方便仮門に拘って、自然の浄土を知らないのです。
※「自然はすなわちこれ弥陀の国」(善導大師著『法事讃』)
一方、親鸞聖人から直接聞いた法語を、直弟子の唯円が編んだ『歎異抄』第十二章の中に「本願を信じ、念仏申さば仏になる」という一行があります。では、その「本願」とは? 全ての衆生を仏にする(悟らせる)阿弥陀の「願い」、誓願ともいいます。法蔵菩薩が因位の時この願いを建てられました。若しこのことが成就できなければ、私は菩薩よりワンランク上の「仏」にならない、との誓願を建立されたのです。そしてその願が成就して法蔵菩薩は阿弥陀仏となられました。そうした誓願を信じ念仏すればたすかる、仏に成れる、というのが親鸞聖人の教え。真宗の教えの根幹です。
となると、「念仏」とは何かということになろうか、と。念仏について仏教各派の中には、仏の姿や功徳を思い描いたり、仏を賛嘆したりする行の一つと考える向きもあるようです。例えば、「南無釈迦牟尼世尊」とか「南無大師遍照金剛」とか。日本で浄土系の教えが弘まるとともに「称名念仏」がその主流に。その称える仏の御名は阿弥陀仏。浄土宗・浄土真宗では念仏は「南無阿弥陀仏」。ナムアミダブツ、ナムアミダブツと合掌礼拝時に口に出して称えます。ただ、称え方においては宗派によって多少の差はあるようです。真宗の中でも西と東とでは微妙な差。本願寺派では割とはっきりした口調で声に出すのに対して、大谷派では微音。
ところで南無阿弥陀仏は何語? 漢語or和語?
オリジンはインド語・サンスクリット語。文字で表すのは多少無理がありますが、南無阿弥陀仏を原点のサンスクリットの発音と対照してみましょう。南無=ナモ:帰依・帰命/阿=ア:否定・NO/弥陀=ミタ:限/(バー:光/ユス:寿)/仏=ブッダ。こうした表記は〝音写〟といわれています。一方和訳文字を連ねてみますと、「無量光・無量寿の仏に帰依・帰命します」ということに。阿弥陀仏は〝光寿無量〟の仏様。「帰命無限(量)光・寿如来」となります。朝夕の勤行で拝読しております『正信偈』冒頭二行は、まさにこの南無阿弥陀仏の和語。
帰命無量寿如来
南無不可思議光
本願寺第八世の蓮如上人も、この六字念仏「南無阿弥陀仏」について「御文」の中で度々ご自身の領解を述べ教化に努めていらっしゃいます。時には厳しく、時には優しい言葉で説かれています。「御文」三帖目第六通「南無阿弥陀仏の六字のいわれ」もその一つ。
【本文】それ南無阿弥陀仏ともうすは、いかなるこころぞなれば、まず「南無」という二字は、帰命と発願廻向とのふたつのこころなり。また「南無」というは願なり。「阿弥陀仏」というは行なり。されば雑行雑善をなげすてて、専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまえとおもう帰命の一念おこるとき、かたじけなくも遍照の光明をはなちて、行者を摂取したもうなり。このこころすなわち「阿弥陀仏」の四つの字のこころなり。また発願廻向のこころなり。これによりて「南無阿弥陀仏」という六字は、ひとえに、われらが往生すべき他力信心のいわれをあらわしたまえる御名なりとみえたり。このゆえに、願成就の文には「聞其名号信心歓喜」(大経)ととかれたり。この文のこころは、その名号をききて信心歓喜すといえり。その名号をきくというは、ただおおようにきくにあらず。善知識にあいて、「南無阿弥陀仏」の六つの字のいわれをよくききひらきぬれは、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。かるがゆえに、信心歓喜というは、すなわち信心さだまりぬれば、浄土の往生はうたがいなくおもうてよろこぶこころなり。このゆえに弥陀如来の五劫・兆載永劫の御苦労を案ずるにも、われらをやすくたすけたまうことの、ありがたさ、とうとさをおもえば、なかなかもうすもおろかなり。されば『和讃』(正像末)にいわく、「南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 往相回向の利益には 還相回向に回入せり」といえるはこのこころなり。また『正信偈』にはすでに「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」とあれば、いよいよ行住座臥時処諸縁をきらわず、仏恩報尽のために、ただ称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
「御文」三帖目には十三通収録されていますがいずれも長文。この第六通も長文ながら帖内では短い方。しかし、難解な部分が多々あります。「南無」の二字と「阿弥陀仏」の四字に分けて説かれていますが、聞法を尽くされた当時のご門徒でもかなり厳しいものがあったのではないでしょうか。況して現代の人々にはすんなりと受け入れられ難いと思われます。南無阿弥陀仏の六字の名号は、阿弥陀如来の一切衆生を救おうという本願のはたらき(他力)である。このはたらきを正しく受け取り、信知することによって私たちは救われる、と上人はお説きになっているのではないでしょうか。要するに、阿弥陀如来の本願のはたらきを領解することが重要だとお示しくださった、と受け止めさせて戴きました。
※領解:教えを正しく受け取り、教えのとおりに信知すること。安心、解了と同じ。(『真宗新辞典』)
そうしたなか、この御文のポイントは「領解」ではなかろうかと。教えを正しく受け取り、正しく信知すること。では、「正しく」とはどういうこと? 逆に「正しくない」こととは? それは本文の「雑行雑善をなげすてて」。要するに、「雑行雑善」に拘っているのは正しくないこと。その拘りを〝投げ捨て〟なさい、と。雑行雑善をなげすてて、専修專念に弥陀を頼みなさい。帰命の一念が成就したとき、弥陀は遍照の光明をはなちて行者を摂取してくださる。因みに、弥陀の光明はリクエストのあるなしに拘わらず普く私たちを照らしてくださっている。しかし、反応する対象がないと光は認識されません。私たちが求道の縁、就中逆縁に出遭ったとき光は認識されるのでしょう。
「雑行雑善」の類いは、他の御文にも多々見受けられます。正雑二行・雑行雑善・モロモロノ雑行・雑行雑修等々。上人在世のころは上人の懸命な布教で本願寺は隆盛し、各地に諸堂も建立されるという教団情勢にもかかわらず、雑行雑修の風潮からは脱けがたいものがあったでしょう。南無阿弥陀仏も雑行雑善に仲間入りしていて、南無阿弥陀仏は御利益を得るために祈ることばだと思っていたのかもしれません。「長生きできますようにナンマンダブツ」「病気が治りますようにナンマンダブツ」。今から500年前も今も、吉凶禍福を祈る人心は変わらずといったところでしょうか。否、今の方が事態は深刻かも。
この教えの原点はもちろん宗祖親鸞聖人。南無阿弥陀仏は祈りの念仏ではないのです。念仏を祈りの道具にしてはならないとおっしゃっているのです。親鸞聖人の主著『教行信証』(仮身土・本)には
およそ大小聖人・一切善人、本願の嘉號をもって己が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえに、報土には入ることなきなり。
と説かれています。念仏を善根とするから、信心を得ることができないということです。念仏を自分の徳を高めるための善根功徳にしてはいけないとおっしゃっているのです。
『歎異抄』第八章には次のような法語が認められています。
念仏は行者のために、非行非善なり。我がはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれるがゆえに、行者のためには非行非善なりと云々
【趣意】念仏は、それを行ずる者にとって、行でもなく、善でもない。自分のはからいで行ずるのではないから、非行という。自分のはからいで作る善でもないから、非善という。念仏は、まったく阿弥陀仏の本願のはたらき(他力)であって、自分のはからいを離れている。だから、念仏を称える行者にとっては、行でもなく、善でもない。と聖人はおっしゃった。
合掌
2023/05/03 前住職 本田眞哉 記