法 話


(267)「蓮如上人(36)

 


大府市SE氏提供  
  

 
 

信心(しんじん)獲得(ぎゃくとく)
 

 
 

本願寺第八世蓮如上人の書かれた『御文』の五帖目(ごじょうめ)第五通は「信心獲得」の御文。ご案内のとおり、五帖目は執筆年代不詳の御文二十二通が収録されています。しかも、一帖目~四帖目の御文に比べて概ね短編。したがって、ご門徒の年回法要や祥月命日のお勤めの折に、五帖目の御文を拝読させて戴いております。本シリーズでも、既に「末代(まつだい)無智(むち)」「白骨」「聖人(しょうにん)一流(いちりゅう)」の御文を味わわせていただきました。今回は「信心」について、その深遠な(こころ)を求めて教えをお尋ねしたいと思います。先ずは本文。

       【本文】信心獲得すというは、第十八願をこころうるなり。この願をこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたを心うるなり。このゆえに、南無と帰命する一念の処に、発願回向のころあるべし。これすなわち弥陀如来の、凡夫に回向しましますこころなり。これを『大経』には「(りょう)諸衆生(しょしゅじょう)功徳(くどく)成就(じょうじゅ)」ととけり。されば無始已来(むしいらい)つくりとつくる悪業(あくごう)煩悩(ぼんのう)を、のこるところもなく、願力不思議をもって消滅するいわれあるがゆえに、正定聚不退(しょうじょうしゅふたい)のくらいに住すとなり。これによりて、煩悩を断ぜずして涅槃(ねはん)をうといえるは、このこころなり。此の義は当流一途の所談なるものなり。他流の人に対して、かくのごとく沙汰あるべからざる所なり。能く能くこころうべきものなり。ああなかしこ、あなかしこ。

            東本願寺出版部発行『眞宗聖典』より

【現代語】信心を得るということは、阿弥陀仏の第十八願の(こころ)を  心得るということです。この願の意を心得るということは、南無阿弥陀仏のいわれを心得るということです。

私たちが南無と阿弥陀仏に帰命する信心は、帰命させて救おうと阿弥陀仏の方から与えられた本願のはたらきです。つまり、信心とは阿弥陀如来が凡夫に届け与えられた如来の真実心なのです。すなわち、如来が凡夫に如来の徳を回施(  )されるということです。

このことを『仏説無量寿経』には、「令諸衆生功徳成就(もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ)」と説かれています。はるか昔より作り続けてきた悪業や煩悩を、残すことなく阿弥陀如来の願力によって消滅してくださることとなって、浄土に往生することに定まって退くことのない身に成らせていいただくことができるのです。「不断(ふだん)煩悩(ぼんのう)(とく)涅槃(ねはん)」(正信偈(しょうしんげ))とはこのことです。自らの力で煩悩を断じることなく涅槃を得るということをいうのです。

ただ、この教えは浄土真宗だけが説くもので、他流の人に対して論じるべきものではありません。十分心得るべきことです。

※信心:一般的に「信心」といえば、神や仏を信じる心。巷で「亡くなったおじいさんは信心深い人だった」とか、「今の若い者は信心が足りない」などという話をよく聞きます。世界中の宗教には「信心」はありましょう。しかし、そうした信心は、信者の側から差し出すというか、神や絶対者に祈りを捧げるベクトルといったものではなかろうか、と。

しかし、親鸞聖人の絶対他力の「信心」は、そのベクトルの方向がまったく逆で、弥陀如来の方から私たちに「回施」された信心。南無と帰命させて救おうと阿弥陀仏の方から届けられた、与えられた信心なのです。ただ、それを感得できるか否かが問題。感得できたとしても、本当に自分の信心となっているかが問題。そこに「獲得」が問われるのでしょう。

『真宗新辞典』には獲得について「うること、みにつくこと。一般には不相応行の一で、まだえぬもの、すでに失ったものを今えることを獲、えてからうしなわないものを得、成就とする[俱舎論(くしゃろん)真宗では(ぎゃく)の字は(いん)()のときうるを(ぎゃく)という。(とく)の字は()()のときにいたりてうること(とく)といふなり(後略)[正像末和讃]』とあります。『仏説無量寿経』には、「阿弥陀如来は本願を果たし遂げようと永劫のあいだ、真実心をもって衆生救済のための修行を重ねられた。すべては、あらゆる衆生に功徳(信心)をえさせんがためである」と説かれています。折角差し伸べられている阿弥陀仏からの信心、獲得せずに見逃したとしたら心残り。

※第十八願:阿弥陀如来の(因位)法蔵菩薩は、すべての人を幸せにするために四十八の願を建立。その願が成就して法蔵菩薩は阿弥陀如来(果位)となられました。その第十八番目の願のこと。呼称は「念仏往生の願」。

説我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者  不取正覚 唯除五逆 誹謗正法 (『仏説無量寿経』)

     【訓読】たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽(しんぎょう)して我が国に生まれんと(おも)うて、乃至(ないし)十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。(ただ)()(ぎゃく)正法(しょうぼう)を誹謗するものをば除く。

この願は阿弥陀仏の本心が誓われていることから本願の中の本願、〝王本願〟ともいわれます。

※不断煩悩得涅槃:親鸞聖人のライフ・ワーク『教行信証』の行巻末の『正信偈』の中に、

      能発(のうほつ)一念(いちねん)喜愛(きあい)(しん) 不断(ふだん)煩悩(ぼんのう)(とく)涅槃(ねはん)

      よく一念喜愛の心を(ほっ)すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり

の一句があります。「煩悩を断ち切ることなく涅槃を得ることができる」との趣意。一方、涅槃とは、「凡ての煩悩の束縛より脱し、迷いの生死(しょうじ)を超越して、悟りに入ること」(真宗新辞典)。まさにパラドックス。こうした教えは、『歎異抄(たんにしょう)』などにもありますが、聖人の教えは常識と違った、常識を超えた、非常に理解しがたい法語があります。よくよく聞き開いていくと超越した価値観が心に響きます。通仏教的には、煩悩を断ち切ることが最大問題。煩悩を自分の力で無くして安心を得ようする教え。そのためには「行」が必要。就中「難行」。よく知られているのが、比叡山の「千日回峰行」。余談ながら、HPには「千日回峰行は『悟りをえるためではなく、悟りに近づくため課していただく』ことを理解するための行である。」との解説が載っていました。はてさて?

 こういった行は、自力を尽くしての行。これに対して、念仏の教えでは自力の行は必要なく、煩悩があるままで、人間の努力ではなくて、仏様のはたらき・他力でお浄土に生まれることができるのです。こういったことを他宗派の人にいうと、そんなのは仏教ではない、間違った教えだと反論されるから、仲間以外と話し合うことは慎んだ方がよろしい。と蓮如上人は御文を結んでいらっしゃいます。

 ※正定聚(しょうじょうしゅ):往生が正しく定まり必ず悟りを開くことができるともがら。大経第十一願に「国中の人天、定聚に住し必ず滅度に至らずば正覚をとらじ」と誓い、その成就の文には「彼の国に生るれば皆悉く正定之聚に住す」と説く。(中略)正定聚に住するが故に必ず滅度に至るとし、真実信心の人を「正定之聚の機」と名付け現生十種の益の第十に「入正定之聚の益をあげる。」(『真宗新辞典』)。また、親鸞聖人のつくられた『浄土和讃』には「まさしくさだまるともがら」「ほとけになるくらいなり」と謳われています。一方、『一多文意』には「かならずほとけになるべきみとなれるなり」とあります。正定聚とは、必ず仏に成れるともがら。愚案を巡らせば「正定聚の位」とは、現生で信心を獲得して、命終われば必ず仏に成れる輩の指定席といったところではないでしょうか。

合掌

2023/05/03  前住職 八十七翁 本田眞哉 記

 

追記:坊守・前坊守ともに入院加療中で諸事多端のため、法話は暫く休載させて戴きます。

                                                  

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