法 話

(28)愚かさとは」















 まさにパラドックス。はじめてこのことばを聞かれた方は、その意味するところが理解できないのではないでしょうか。

 世間の常識からすれば、深い知性を持ち謙虚さを備えた人は賢い人ということでしょう。ところが、ここでは深い知性と謙虚さからは愚かさが発生するというのです。

 改めて、「知性」とはいったい何なのでしょう。『広辞苑』(岩波書店)には「知的能力。視覚を素として認識を作りあげる精神的諸機能。」と難しいことが書かれています。「謙虚」については、同じく『広辞苑』によりますと「謙遜で心にわだかまりのないこと。ひかえめですなおなこと。」とのこと。

 一方、『大漢語林』(大修館書店)を紐解いてみますと、「謙」の意味は「へりくだる。ゆずる。自分をおさえて、人にゆずる。」と記されています。また「虚」については「むなしくする。からにする。」と。要するに「謙虚」とは、おのれをむなしくしてへりくだって、人のゆずるということでしょう。

 とすると、「知性」も「謙虚さ」も一般的価値観からすれば、プラスの“良い”価値観といえましょう。それがここでは負の価値観である「愚かさ」といわれています。なぜなのでしょう。

 本願寺第8世・蓮如(れんにょ)上人(14151499)は、信心についてたくさんの手紙をご門徒宛にしたためられました。上人が亡くなられてからその手紙を編集して『御文』という書簡集が出版されました。真宗の教えを仮名交じり文で平易に説いた聖典として広く門徒に流布し、現在も法要・勤行(ごんぎょう)などの折りに拝読されています。

 その『御文』の中に次のような文があります。

   それ、八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とす。たとい一文不知の尼入道なりというとも、後世をしるを   知者とすといえり。(後略)

 「法蔵(ほうぞう)」というのは、教法の蔵の意味で、経典や聖典をさします。次に「後世(ごせ)」ですが、これは「後生(ごしょう)」ともいい、文字面から見れば後の世、来世、死後の世ということになりますが、換言すれば次に生まれる世ということになりましょう。

 親鸞聖人は、人は死後仏となって浄土に生まれる、とお教えくださっています。そして、生きている間、すなわち「現生(げんしょう)」においてその予約席である「正定聚の位(しょうじょうじゅのくらい)」に入ることができると。もちろん、何もせずのほほんとしていてこの位が得られるわけではありません。

 定番的な表現を使えば「本願を信じ念仏申さば仏に成る」ということですが、本願の光に照らされて、私の自己中心的価値観のメカニズムが明らかになった瞬間、新しい世界が開かれ、そこに生まれ変わることができるのです。今までの価値観の本願力による絶対的否定という「回心(えしん)」を通して得られた予約席が正定聚の位なのです。伝統的な用語でいえば、「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」した時点にいただける座なのです。

 たとえ八万の法門を習得して知識が豊かで知性が満ちあふれていても、「後世」を知らない人、つまり信心を獲得していない人、すなわち新しい自己に目覚めていない人は、仏さまの眼で見れば愚か者であるということです。

 さらに、「たとい一文不知の尼入道なりというとも、後世をしるを知者とすといえり。」と述べられております。たとえ学問もせず知識のないまま仏道に入った人(男・女を問わず)でも、信心を獲得して煩悩を超克し、新しい世界に生まれることができる人は、仏さまの眼から見ればその人は「知者」である、と。反対に、深い知性を振り回す人は仏様の眼から見れば「愚者」ということです。                     【次号へ続く:2003.7.3.住職・本田眞哉・記】

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