法 話

(3)「主体性」

  2002年度から、小中学校では新指導要領が全面施行されます。教育内容が大幅に変わるため、最近各種メディアも盛んにこの話題を取り上げています。学校週五日制の完全実施ということもあって、授業内容が精選され今までに比べて30%カットされるという。このことを取り上げて、巷では俄然議論が沸き起こっています。「学力が低下してしまうのではないか」「最近の日本の子どもの学力は他の国に比べて低いといわれているじゃないか」「分数が解らない大学生がいるというのに、さらに数学の力が下がってしまう」「なぜ円周率が3.1なんだ」「台形の面積を求めることを教えないんだって」…etc.

 一方、聞き慣れない教育用語も。「ノーチャイム」「自己教育力」「TT(ティームティーチング)」「オープンスクール」「個別化・個性化教育」「主体的教育」等々。そして、それらの頂点といいましょうか、文字通り“総合”的位置にあるのが「総合学習」。これまた巷の教育論の中心的話題。今までにない新しい教育方法で、新指導要領の中の“超目玉”。「新しい」といわれますが、実はこの「総合学習」、その淵源は20世紀初頭にまで遡ります。アメリカのデューイ(Dewey,J)が生みの親です。

 彼は、「私たちはその一つが数学的で、他の一つが物理的で、もう一つが歴史的などといった層化された世界に住んでいるわけではない。全ての学習は一つの共通な偉大な世界の中にある諸々の関係の中から生じてくるものである。子どもたちはこの共通な世界とかかわり合いながら、多様であるが具体的かつ生き生きとした関係をもって生きている。子どもたちの学習は自ら統一されたものである。…学校を生活とかかわらせよ、そうすれば、すべての学習は必ず相互にかかわってくる」(加藤幸次・上智大学教授訳)といっています。

 現在のような教科の縦割り学習ではなく、「総合学習」であるべきだと提言しているわけです。ただ、「総合学習」は「全体」を問題にしている学習ですが、その全体は「部分の総和」ということではありません。このたびの教育改革の柱として導入される「総合学習」も基本的にはデューイの理念の実践でしょう。学校は暗記と試験に明け暮れる受動的な場であってはならないという発想のもと、子どもたちが生活していく上で問題を見いだし、それを解決して生きる方法を学ぶことこそ第一目標とすべきだ、とデューイは考えたのです。

 したがって、「総合学習」は「問題解決学習」であり、そのためには「自ら学び、自ら考える」主体的学習活動が求められます。そこには、答えを教える指導ではなく、子どもが問題を見つけだし、主体的に判断できるような指導が必要とされます。一つの課題に取り組む中からいろいろな問題が派生してきます。いずれも生活に即した視点から問われる問題ですが、それを分立する教科に返すのでなく、教科横断的に総合的に問題を解決していくのが「総合学習」のねらいです。この学習方法を一足早く小学校低学年で実施しているのが「生活科」です。

 「総合学習」は、来年度からの完全実施に向けて、いま全国各地の学校で移行段階に入っています。先生方は教育の大きな転換点に立って大変です。研究に、見学に、会議に、カリキュラムの作成に、時間をかけエネルギーを注いで頑張っています。特に「評価」は工夫と手間暇を要する重要課題です。「ポートフォリオ」などという耳新しい評価法も注目の的です。そんななか、こうした新しい教育に先進的に取り組んでいる学校があります。それは、私の出身校で当了願寺もその校区にある東浦町立緒川小学校です。

 いわゆる主体的教育の研究実践を出発点として、1978年校舎がオープン方式に建て替えられたのを契機に、個別化・個性化教育の実践研究への取り組みが始まりました。爾来20余年、たゆまぬ努力を続け、個性化教育に関しては全国にその名を馳せています。当初より現在に至るまで一貫してその推進のために指導・助言いただいているのが隣接半田市出身の加藤幸次・上智大学教授です。私自身も発足当初にPTA会長をさせていただいたこともあり、教育委員の現在に至るまで関わりを持たせていただいております。

 初期の段階では、保護者や地域の人々の中には反対意見もあり、文部省や県教委すら“異端児”扱い。にもかかわらず、先生方のねばり強い研究努力と父母の理解のもと、じわじわとその成果が教育界に浸透していきました。緒川の成果が「総合学習」に結実し、このたび全国的に導入されることになったといっても過言ではありますまい。15回を数える実践研究会には、毎回全国各地から1000名に垂んとする先生方が参加されます。そして、1997年より5年連続文部(科学)省の「研究開発学校」の指定を受け、次世代の指導要領の改訂を見据えて研究・実践に取り組んでいます。

 先日の『中日新聞』に、豊橋市立前芝中学校の「ノーチャイム」の事例が報道されていました。実施6年目を迎えて成果が現れ、チャイムが鳴らなくても授業開始に遅れる子はいない、と。「強制なしにすべて『自分から』」の見出しのとおり「自主性」が育ったとのこと。緒川小学校では、すでに1984年からこのノーチャイム制が実施されています。規制されるのでなく主体的にものごとにかかわってこそ、真に自分のものになるということを体得する一つの手だてといえましょう。

 ところで、親鸞聖人
(しんらんしょうにん)はこの「自主性」とか「主体的」ということについてどのようにお教えくださっているのでしょうか。聖人の主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』第六巻に『般舟三昧経(はんじゅさんまいきょう)』を引いて次のように書いていらっしゃいます。
 (前略)
余道に事(つか)うることを得ざれ、
     天を拝することを得ざれ、
     鬼神を祠
(まつ)ることを得ざれ、
     吉良日を視
(み)ることを得ざれ、と。


 「余道」とは、「仏道」に対する表現で、仏道以外を依りどころとすることのないように、との誡めでしょう。具体的には、祟
(たた)りを畏(おそ)れて天の神を崇(あが)めたり、悪鬼神や祖霊に対して鎮(しず)まるようにと、供物を供えてお祓(はら)いをしたりする必要はない。あるいは、目に見えない大きな力による災いから逃れようと日柄を視る、というようなことはすべきでない、と教えてくださっています。これらの詳しいことについてのお話は別の機会に譲るとして、今ここで注目したいのは「得ざれ」という言葉です。

 これは「〜するな」という禁止句ではなくて、「必要としない身となれ」とおっしゃっているのだと思います。他律的に禁止句を押しつけてみても、一時的には規律が守れるかもしれませんが、じきに天を拝する心が起き、無事を祈って悪鬼神を祠り、良時吉日を視てしまう。自ら覚めることによって主体的に受け取らなければ、問題の根本的な解決にならないということでしょう。

 また、弟子の唯円が聖人の教えを書きとめた『歎異抄
(たんにしょう)』には次のように書かれています。聖人自信の信心の伝承を述べたのに続いて
     念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり
とおっしゃっています。

 親鸞聖人の教えは、「天命に従え」とか「教祖のご託宣を聞け」とかいったり、「脱会したら罰が当たるぞ」と脅したりする宗教とは全く逆で、強制ではなく自覚的に教えを聞き開き、主体的に信じる宗教なのです。

                                          合掌

2001.5.31.本田眞哉・記】

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