法 話
(31)「いのちの尊厳」(下)
一方、いのちを差別する行為が合法的に堂々と行われている世界があります。それは脳死による臓器移植。いろいろ問題があるにせよ、生体移植ならばまだ許されるところでしょうが、私は脳死移植についてはどうしても賛成できません。
脳死移植法が紆余曲折を経て成立したものの、子どもには適用されません。そこで心臓移植を必要とする子どもは移植手術を受けるために外国へ渡ります。ところが、「待っている間に容態が悪化して亡くなった」というニュースが報道されたことは一度や二度ではありません。
私が気になるのは「待っている」というフレーズ。何を待っているのでしょうか。もちろん臓器提供者でしょうが、その内実は誰かが死ぬのを待っているのです。「脳死」をもって生体が死んだものとする人間の出現を。そして、その生体?死体?から必要な臓器を摘出して移植する。何とも残酷な話で、差別的な行為と感じるのは私ひとりでしょうか。
どうせ死ぬ私の肉体で助かるいのちがあるならば、喜んで提供しましょうというヒューマニズム。いかにも麗しい善意ではありますが、これはいのちの私物化・差別化ではないでしょうか。ところが、もっとひどいいのちの差別の実例があるという。
いささか旧聞ですが、ある日本人がフィリピンへ渡って、確か肝臓だったと思いますが移植の手術を受けたものの、術後の経過が悪く亡くなったというニュースがありました。聞くところによれば、この例に限らず臓器を金で買える国が世界中にかなりあるとか。発展途上国が多いようで、経済大国の日本人ならば比較的“お値打ち”に臓器を買うことができるようです。
経済力豊かな国の人間が、経済不如意な国で臓器を買って移植し、いのちを長らえる。金持ちのいのちは尊くて、貧乏人のいのちは卑しいという図式がこの地球上に存在するのです。貧乏人のいのちは金持ちのいのちの犠牲になって当たり前というテーゼがまかり通るようでは、グローバリズムも地に落ちたものです。
なぜこうした行為がいのちの私物化・差別化なのでしょうか。「いのちは誰のものか」の原点に立ち返ればおのずと明らかなこと。自分のものだと思っているこの私のいのち、実は大自然の大きないのちの、ほんの一部分をお借りして生かさせていただいているにすぎません。いただきもののいのちなのです。もっといえば、仏さまからいただいたいのち。 仏さまからいただいたいのちは平等です。仏さまはいのちの差別をしません。
さて、数ある仏さまの中で、ただお一人この世でいのちの営みをされた仏さまがいらっしゃいます。それはお釈迦さま、釈尊です。今から2500年前、北インド(現在のネパール)はルンビニで、父・浄飯大王と母・摩耶夫人の間に生まれたのがゴータマ・シッダルタ王子。のちのお釈迦さま。
結婚して子どもにも恵まれたのに、人生の苦悩と世間の虚仮を感じ、王城・妻子を捨てて出家。6年に及ぶ苦行にも満足が得られず、道を改め菩提樹下で思惟し、遂に悟りを開き仏陀となられました。釈迦牟尼仏です。
仏伝によれば、生まれたばかりの太子はすぐに七歩歩み、天と地を指さして「天上天下唯我独尊」と大きな声で叫ばれたといわれます。七歩の歩みについては、六道を出でてとかいろいろな意味がありますが、ここでは「天上天下唯我独尊」に触れてみたいと思います。
「天上天下」はこの世界のこと。「唯我独尊」は「ただ、我独りにして尊し」と読みます。ともすると、お釈迦さまは天才だから、生まれながらにして私独りが偉いのだ、とおっしゃったと解釈されがちですが、それは誤解。お釈迦さまに限らず、生を受けた私たち一人ひとりが、独立した人間として尊いいのちをたまわっているという意味です。
たまわったいのちは平等で、それぞれ一人ひとり尊い存在であります。お釈迦さまのいのちも私のいのちも同じで平等であります。あたかも太陽の光が地球上の誰の上にも平等に注がれるように。いただきもののいのちを私物化すれば、そこに差別が発生するのは理の当然でありましょう。
最近「いのちの尊厳」という言葉をよく耳にしますが、これはどういうことなのでしょう。いうまでもなく、人のいのちは尊い、尊くおかしてはならないということです。最近「安楽死」をもって人間のいのちの尊厳性を意義づけようとする風潮があるようです。反面、いのちの尊厳の名のもとにチューブをつけて延命を図るという行為も日常的に行われています。
しかし、いずれの場合も自然の流れに逆らった、恣意による尊厳性でありましょう。仏さまの教えによれば、「いのちの尊厳」はたまわったいのちの平等性のうえに立ってはじめていえるのだと思います。いのちが私物化・差別化された時点で、いのちの尊厳性は傷つけられてしまいます。
金で臓器を買って移植し、平等性と固有性を踏みにじって、私物化したいのちを長らえたとしても、その人のいのちの尊厳性が保たれたとは思えません。一人ひとりにたまわった、かけがえのない、代わることのできない尊いいのちを精一杯生かさせていただきたいものです。「唯我独尊」なのです。合掌
《2003.9.1 住職・本田眞哉・記》