比べる

必要がないほど

平等なことは

ありません


         真宗教団連合カレンダーより

法 話

(32)「人と生まれて」@

           人権について考える

  














 先般、藤井治芳日本道路公団総裁の解任騒動がありました。その時の記者会見で藤井総裁側は、「解任は人権侵害だ」とコメントしていました。「私は何も悪いことはしていない(藤井氏)」のにクビを切られたというので、人権を侵害されたと受け止めたのでしょう。

ところで、「人権」とはいったい何なのでしょう。「人権侵害」「人権蹂躙」「人権擁護」「人権教育」「人権問題」などという言葉は日ごろよく耳にしますが、改めて問われてみると、「人権」について果たして正確に理解しているかどうか疑問に思われます。折しも、今年は「人権教育のための国連十年(1995年〜2004年)」の終盤の年。「人権」について少し考えてみたいと思います。

「人権」とは? まず、岩波書店発行の『広辞苑』をひもといてみました。「@自然権に同じ。A(right of man)人間が人間として固有する権利。実定法上の権利のように自由に剥奪または制限されない。基本的人権。」と記されていました。何か難しい説明ですが、「人権」は人間が生まれながらにして持っている権利で、「国家以前の権利」といったらよろしいでしょうか。

となれば、国から与えられた権利ではないから、国はこれを侵害したり奪ったりすることはできない、ということになりましょう。人として生まれると同時に発生する権利だから、これを「基本的人権」といい日本国憲法でも保障されているのです。

にもかかわらず、国家権力や強者の私人が弱者の「人権」を蹂躙したり侵犯したりする事案がたびたび起こっています。冒頭の藤井総裁サイドの「人権侵害だ」との発言は、国家権力により基本的人権が蹂躙されたことを訴えたかったのでしょう。ただ、この場合「人権」の侵害なのか、実定法上の「権利」の侵害なのか、あるいは両者を含めて言っているのか定かではありません。

一般的には、生まれながらにして有する自由を奪われたり、尊厳を傷つけられたり、あるいは人種・言語・性・宗教・出身・地位などに基づく差別を受けたりして人権を侵されるケースが多いようです。

 1789年のフランス革命の「人権宣言」に端を発するといわれる「人権」のコンセプトは、やはり「自由と平等」というキーワードに集約されるのではないでしょうか。したがって、その底流をなすアンチテーゼは「抑圧」と「差別」ということになりましょう。

抑圧や差別をなくすことによって、生まれながらにして保有する「基本的人権」を確保し、自由で平等な人間関係を構築することができ、ひいては平和で幸せな社会を実現することができる、という図式になりましょう。ところが、この「人権」は「権利」には違いないものの、実定法上の「権利」とはちょっとニュアンスが違うように思われます。

もちろん「人権」の中には実定法によって保障されている「権利」もありましょうが、保障が確保されていない部分の方が多いようです。生まれながらにして持つ「人権」は、例えば所有権とか地上権のように対価を払って「獲得」する性格の「権利」ではなく、具体的判例などで実定法上の“地位”を、時間をかけて獲得していくのがせいぜいでしょう。いわゆる“目標”とか“宣言”の域を出ていない部分が多くを占めているといえます。

 したがって、能動的な“獲得”とか“主張”が前面に出ず、受動的な“侵害”とか“蹂躙”とかいう問題として扱われ、人権を「擁護」するとか「保障」するというかたちでの対応が必要になるのもそのためでしょう。「人権委員」でなく「人権擁護委員」という名がそれを物語っています。

ところで、実定法上では権利主体となれない子どもですが、「人権」についてはどうなのでしょう。「人権」は実定法上の「権利」とは異質な「自然権」ですから、18歳未満であろうとも未成年であろうとも権利主体になり得ます。しかし、子どもの「人権」認知への取り組みの歴史はそんなに長くはありません。

1959年に「国連・子どもの権利宣言」が発せられ、1989年には「子どもの権利条約」が国連総会で採択され、全世界的に子どもの権利を保障する道が開かれました。条約に盛り込まれた内容は、「生存の権利」「発達の権利」「保護の権利」「参加の権利」「『特に困難な状況下の子ども』の権利」等。

この条約が採択された後、国際社会では予想を上回るスピードで批准が進み、1998現在では191か国が批准を終えています。日本も19944月に158番目の国として批准し、同年522日には国内発効しました。

しかし、子どもの権利条約が発効したからといって、日本国内で子どもの人権侵害が一気になくなったかといえば、そんなうまい具合にはまいりません。ただ、徐々にではありますが、子どもの人権擁護意識が浸透しつつあることは確かです。

子どもの人権問題は、児童相談所や裁判所の中とか、弁護士の周辺にだけあるのではなく、私たちの身近なところに常在しているといっても過言ではありますまい。つい先日、18歳の高校生が愛人の4歳になる子どもを虐待のうえ殺害した事案が報道されました。

この事案では、「生存の権利」も「発達の権利」も「保護の権利」も、子どもの「人権」が丸ごと抹殺されるという極端な例ですが、もっと軽微といいますか、人権問題と認識されないような、知らず知らずのうちに子どもたちの心を傷つけている事例もいっぱいあります。合掌

《次号へ続く:2003.11.1 住職・本田眞哉・記》

  to index